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酒と蘊蓄の日々


THE DAYS OF WINE AND KNOWLEDGES


かくして流言蜚語は横行する (その4)

あの大地震そして原発事故の発生から3ヶ月半経ちました。最近はメディアも世間一般も冷静になってきたというより、食傷気味になってきたというのが私の個人的な印象です。元バブコック日立の田中氏は前述した圧力容器の歪み修正問題のとき、東電関係者のみならず政府も真相究明より騒動の収束を優先させたと嘆いていました。今般は逆に解決までの明確な目処が立たず、長い時間がかかっていることで原発事故そのものも放射性物質の漏洩も日常のことになってしまい、次第に感覚が麻痺していくことが懸念されます。

さて、これまでも何度か触れてきましたように、5大紙のうち、産経、読売、日経の3紙は明確に原発推進論へ傾倒していました。今回の事故は彼らの主張にとって大きな障害となり、その甘い認識を露呈することにもなりました。安全神話を信じてきた(神話を創作する片棒を担いできた?)論説委員たちも相応に苦い思いをしていることでしょう。ま、リアクションは各紙各様ですが。

日経は以前に比べるとややトーンを下げたように感じます。同紙は昨年メキシコ湾でBPが起こした海底油田事故に対し、低炭素社会を目指す教訓だと述べていました。今回の原発事故は誰がどう見てもあの油田事故と比較にならない惨憺たる有様ですから、それでも原発推進論を高らかに唱えれば明らかなダブルスタンダードになります。さすがに冷却期間が必要だと考えているのかも知れません。

産経は全く態度を変えておらず、むしろ失地回復に躍起という風にも見えます。浜岡原発の停止措置について書かれた5月13日付の主張では特に顕著で、「"脱原発"に流されるな」との中見出しを掲げ、「脱原発に進めば、アジアでの日本の地盤沈下は決定的となる」などという、これまた凄い極論を展開しています。

一方、朝日はリベラル系らしく原発に対して消極的で、チェルノブイリ以降はヨーロッパ諸国のモラトリアムを参考にすべきといったスタンスでした。近年は地球温暖化対策として容認に転じ、「当面の間は、安全性に配慮しつつ今ある原発を活用せざるをえない」という意向を示すようになっていました。しかしながら、今回の事故で原発への依存を窘める姿勢を示し始めました。

5月12日付の社説では「02年の東京電力によるトラブル隠し、07年の新潟県中越沖地震、そして今回と、この10年間に日本で3度起きた電力供給危機は、いずれも原発が原因で、むしろ安定供給の弱点になってきたことがわかる」と、彼らにしては珍しく鋭い指摘をしています。ただし、5月22日付の社説『北欧が示す未来図―自然エネルギー社会へ』ではいつもの自然エネルギー崇拝に傾倒していますから、大した進歩があったわけでもありません。

2002年の東電によるトラブル隠しについてザッと補足しておきましょうか。彼らは福島第一、第二、柏崎刈羽で発生したシュラウド(圧力容器内の隔壁)のひび割れなど、不具合に関する情報を改竄、違法修理の発覚を恐れて隠蔽を図りました。が、この点検に関わったGEグループのアメリカ人技術者による内部告発によって白日の下にさらされ、この不正を質す調査のために順次停止させることになったわけです。

翌2003年の4月15日までに東電が保有する原発17基全てが停止され、調査が行われました。電力需要のピークとなる夏場までに再起動できたのは僅か4基にとどまり、そうした情勢から大規模停電が懸念されたわけですね。(現在、東電の原発で運転中なのは柏崎刈羽の4基(1・5・6・7号機)ですから、数だけで見ればあのときと同じです。)

原発を廃止すれば日本経済は地盤沈下するなどという産経新聞の弁は極論というより暴論というべきかも知れません。確かに、エネルギーコストが経済に与える影響は相応にあるでしょうが、原発のコスト算出には不透明なことだらけで、矛盾が山積しているという実態は少しでも調べた経験がある人ならば誰でも気付いているでしょう。実際、各国の電気料金を比べてみても、原子力による発電比率と比例しているわけではありません。


このグラフはドル建ての比較で為替レートの影響を受けており、
その点についても考慮する必要がありそうです。
例えば、韓国の電気料金は非常に安くなっていますが、
韓国の自動車や電気製品などが高い価格競争力を持っているのと同様、
猛烈なウォン安の影響も含めて考える必要があるでしょう。

原子力に8割近くを依存するフランスと、2割程度のアメリカを比べても大した差があるようには見えません。一方、ドイツは石炭火力が5割弱、原子力が2割程度でアメリカとよく似た比率ながら、ご覧のように大きな差があります。これはコストに影響する要素が他にもあり、原子力の比率が支配的に作用するものではないということを示していると見るべきです。むしろ、炭素税などの課税が厳しい国ほど電気料金にもその影響が出ているといった相関のほうが顕著かと思います。

日本国内の電気料金を見ても同じようなことがいえます。関西電力は日本で最も原子力による発電比率が高く、約48%に達しています(福井県の承認が得られずに定期点検後の再起動ができない現状から関西電力でも電力不足が懸念されていますが、この高い比率と無関係ではないでしょう)。しかし、同社の料金を他社と比べても大差なく、原発を1基も持っていない沖縄電力と比べても概ね15%程度の差にとどまっています。

ご存じのように、沖縄は多数の島に分断されているうえ、関西圏に比べれば産業規模も桁違いに小さく、効率面でかなりの悪条件が重なっています。こうした不利を斟酌すれば沖縄の料金が高めになってしまうのは当然のことで、推進派が言い張るような「原子力の比率が下がると電力供給コストの上昇に直結する」といった理屈が成り立っているようには見えなくなります。

また、日本には発電方法を問わず、販売した電気に対して一定の割合で「電源開発促進税」が課せられ、その一部はいわゆる「電源三法交付金」として分配されています。朝日新聞によれば、2004年の交付総額は約824億円だったそうで、福島第一/第二がある福島県へ約130億円、柏崎刈羽がある新潟県へ約121億円、敦賀/美浜/大飯/高浜がある福井県へ約113億円、六ヶ所村核燃料再処理施設などがある青森県へ約89億円交付されたとのことです。47都道府県のうちこの4県だけで約453億円、全体の約55%を占めているというわけです。

そもそもはオイルショックを契機とし、火力への依存を抑える電源開発を目的としてつくられた法律に基づく交付金ですから、火力発電所を抱えるのみでは分配されるわけがないのでしょう。が、原発や原子力関連施設を抱える自治体へ重点的に分配されているのは明らかで、誰がどう見ても圧倒的に優遇されています。常識的に考えて、この交付金は原発などを受け容れさせるための懐柔策(いわゆる迷惑料)として機能している部分が大きいと捉えるべきでしょう。

原発が本当に低コストだというのなら、その分だけ課税を大きく設定し、こうした交付金の負担比率を高めてしかるべきです。実際の分配比率を考えれば尚更そうあるべきでしょう。しかし、実質的には他の発電方法による電力販売から徴収された税金も原発の立地を支える一翼を担っているという、非常に矛盾した構造になっているわけです。

矛盾といえば、福島第一原発の古い原子炉を延命させようとした点からも、それは強く感じられます。この連載の「その2」でも触れましたが、東電は設計寿命が40年とされている原子炉を60年使う方向で様々な理由付けを行っていました。これは主要なインフラの建設と解体処分にかかるコストの償却期間を1.5倍延長するということと同義です。低コストなハズなのに、何故このように設備投資をケチる必要があるのでしょう?

先日、関西電力の八木社長は京都府と滋賀県へ足を運び、両知事に節電の協力を要請したそうです。このとき滋賀県の嘉田知事から「老朽化している美浜原発1号機はできるだけ早く卒業してほしい」と求められましたが、八木社長は「高経年化で福島第1原発事故が起きたと思っていない」とその場で拒否する姿勢を示しています。美浜原発1号機の運転開始は1970年ですから、これも設計寿命の40年を超えています。

推進派たちはライフサイクルコストでも原発は安価だと言い張ってきました。それならば姑息な延命などせず、とっとと新型に切り替えて然るべきです。設計年次の新しい原子炉のほうが安全性、エネルギー効率とも優れ、機器の補修や交換などの作業性もより熟慮されているゆえ稼働率の向上も期待できるとされています。政府も自動車や家電ごときに買い替えを促す制度を実施するくらいなら、古い原発の延命など認めず、これこそ新しくさせるべきでしょう。が、電力会社は一様にこれを渋り、政府もそれを認めています。何故こんな出鱈目なことになってしまうのでしょう?

ちなみに、フランスのアレバ社が「第三世代プラス」と称しているEPR(欧州型加圧水型炉)だったら「福島のような事故にも耐えられただろう」と同社のリュック・ウルセルCOO(次期CEOが決定している人物)は述べています。最新のEPRは航空機の衝突や洪水にも耐え得る2つの建屋に分散して6基の自家発電装置を備え、水素爆発を防ぐ「水素再結合装置」を設けているなど、最新の安全策を講じているのがその理由だそうです。ま、原発事故の多くが「想定外」で起こっていますから、個別の事例はともかく、総論としてこれで万全といえるかどうかは別問題でしょうけど。

当blogでは度々触れてきたことですが、日本の原発は常に一定の出力で運転されています。それは、原子炉に対して日常的に温度変化を与えると、そのストレスが安全率を狭めるとの認識からです。これでは電力需要の変動を吸収できませんから、他の発電方法に頼っても調整しきれない余剰電力については受け皿が必要になります。現在、その殆どは揚水発電に依存しています。これはオフピークの余剰電力で下池から上池へ水を汲み上げ、電力需要の上昇に合わせて上池から下池へ水を流して発電するというもので、約30%の損失があるといわれています。

火力や水力は出力調整が可能ですから、電力需給のバランスを取るために揚水発電のようなエネルギーストレージがなくても単体で機能させられます。が、現在の日本において原発はそのような運用ができません。日本の電力供給システムを総合的に考えるとき、原発の機能的な問題を補完するために揚水発電は不可欠な存在といっても過言ではありません。

こうした実情がありながら、世間一般に扱われる原発のコストには揚水発電にかかるそれが算入されていません。私の感覚で言わせて頂けば、これも都合の悪い数字を無視した誤魔化しと見なせます。立命館大学の大島堅一教授も同様に考えているようで、財政支出を含む総計値として「原発+揚水発電」のコストを12.23円/kWh、火力発電を9.9円/kWhと推計しています。(余談になりますが、今夏は電力が不足するという東電の試算でも当初は何故か揚水発電が除外されており、こうした情報操作を批判しているメディアもあります。)


電源別発電コスト(円/kWh)
(1)電気事業分科会コスト等検討小委員会報告書(2004年1月23日)
設備規模、設備利用率、運転年数に想定値が置かれている。割引率3%で試算。
(2)大島堅一『再生可能エネルギーの政治経済学』東洋経済新報社(2010年)

総合資源エネルギー調査会のデータも立命館の大島教授のそれも推計ですから、どこまで現実に見合った計算ができているのか私には解りません。が、これまで莫迦の一つ覚えのように「原発は低コスト」と唱えてきた人たちがいくつもの点で誤魔化しを重ねてきたのは間違いありません。計算する人によって結果が大きく違ってくるというところでも原発のコストは正確に把握されていないと理解すべきでしょう。こうした部分も徹底的に洗い直す必要を感じます。

さらに、原発のコストについて私が特に大きな疑念を抱いてきたのは廃棄物処理にかかるそれで、適切な計算ができているとはとても思えません。というのも、処分しなければならない高レベル放射性廃棄物は現在のところただ保管されているに過ぎないからです。最終的には地下深く埋める「地層処分」になりますが、何処へ処分するかさえ決まっていません。つまり、受け容れ先を懐柔するためにどれだけのカネを積む必要があるのかということも定かではないということです。

しかも、その放射性物質には半減期が数千~1万年を超えるものもあり、そんな長大な時間単位で安全性を保証する見積りなど精密にできるわけがありません。例えば、日本では「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律」で地層処分の記録を経済産業大臣が永久保存すると定められています。こうした情報管理も「永久」というからには精密なコストの見積りなど不可能です。

放射性廃棄物の処分全般を通じたコストについて様々な文献を当たってみましたが、曖昧な部分が非常に多く、この点に何の疑問も感じていない人は全くの無知か盲目的な原発推進論者以外いないでしょう。ま、いまとなってはコスト云々以前に、これを受け容れる場所を探すこと自体が非常に困難になったと思います。

ついでに言わせて頂くと、私はこの事故の前から原発について慎重派というスタンスで、安全性に対して全く楽観していませんでした。それは発電所そのものの安全性よりも「地層処分」という処理方法に関する疑念を払拭できないことのほうが大きかったというのが正直なところです。(なので、私も今回の事故では考えを改めなければいけないと思わされた一人です。)

日本でも地層処分は既に法制化され、NUMOなどは既に確立された技術かと勘違いさせるようなプロパガンダを繰り返してきました。が、法的手続で先行してきたアメリカでさえ、まだ実施されていない未知の分野です。盛んに安全性が唱えられてはいますが、いまのところ何も経験していない机上論の段階ですから、どんな落とし穴が待っているか解ったものではありません。これまで同様に安全性が強調されてきた原発のそれは根拠が極めて脆弱であったことが証明されたばかりです。今後の議論ではこうした廃棄物処理の問題についても徹底的に追求しなければなりません。

先に触れましたように、日経はメキシコ湾の油田事故を社説で取り上げていましたが、低炭素社会を目指す理由の一つにこう書かれていました。「今後、海底油田に対する規制の強化が進み、開発費が増えるのは避けられない。安い値段で得られる石油は、長期的に少なくなる。」こうした見解そのものは正しいと思います。同様に、今回の原発事故も原発のコストを押し上げることに繋がると考えるべきでしょう。

「原発を止めればその分を火力で補う必要があり、その燃料代はどれくらいになる」という理屈もまた、様々な要素を全て無視し、ごく一部分を抜き出した情報に過ぎないというのが私の見解です。今般ような重大事故が起これば、その賠償に莫大なコストがかかってしまうということも従来は一切考慮されてきませんでした。こうしてみれば、産経の「脱原発に進めば、アジアでの日本の地盤沈下は決定的となる」という短絡した主張には流言蜚語と何の差異も認められません。

もちろん、全ての原発を速やかに廃止しろという要求も現時点ではあまり現実的とは思えません。が、今後は日本でもその是非論を避けて通ることができなくなったと見て間違いありません。そして、私の親戚を含む福島第一原発の近隣住民がどのような目に遭わされたか、農業や漁業などにどれだけ広範囲の損害を与えたか、こうした経験を忘れることさえなければ、日本国内に新たな原発を誘致することはほぼ不可能になったといっても過言ではないでしょう。

(つづく)
 * 2011/06/29(水) 23:51:05|
 * 世の中に対する私的雑感
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かくして流言蜚語は横行する (その3)

元東芝の後藤氏は現役時代から僅かでもリスクがあると考えられることに対して軽んじることはできなかったといいます。しかし、従来の「想定」に疑義を唱えても、「若手が怖がるから」と議論を止めるよう諭されたり、「確率の低いことに拘っていたらキリがない」と切り捨てられたり、社内でも空回りしていたようです。

何より、彼も一介のサラリーマンだったわけですから、誰もが日々ぶつかっている立場上の壁もあったでしょう。また、東芝も所詮はプラントメーカーに過ぎませんから、法律の許す範囲でクライアントである電力会社の意向に逆らうことは難しかったと思います。どこまでの裁量が認められていたのか外部からは想像に委ねるしかありませんが、後藤氏が反対活動を展開するようになっていった背景に相応の鬱積があったのは間違いないでしょう。

後藤氏と同じく、メーカーを辞めてから反対活動を展開するようになった人物としてバブコック日立の社員だった田中三彦氏などもその筋では知られています。彼は福島第一原発4号機の圧力容器の製造に関わり、熱処理段階のミスによる歪みで法律の規定する真円度が維持されなかったことと、メーカーの独断で極秘裏にその歪みを修正する熱処理のやり直しが敢行されたことなどを告発した人物です。(その詳細は『原発はなぜ危険か―元設計技師の証言』という著書に詳しく書かれています。)

現在、田中氏は科学ライターとして翻訳や著述活動をしているそうですが、そのキャリアやこれまでの活動を踏まえれば、今般の事故についても弁を振るうべき人物の一人だと思われます。が、彼に対する取材もあまり見かけず、主要メディアからは殆ど相手にされていないという印象が拭えません。「内部告発をした人間は干される」という日本の悪弊がここにも出ているのでしょうか?

それはともかく、後藤氏や田中氏ら元インサイダーたちの証言は、推進派のいう安全性が「すべての可能性を考慮したものではなかった」ということを色濃く滲ませています。原発の安全性に関する「想定」というのは、より安全側に立った意見が尊重されないことも少なくないようです。保安院も「安全だと思っていた基準が不十分だった」と想定の甘さを認めていますし。

JCOの臨界事故や新潟県中越沖地震のとき柏崎刈羽原発で生じたトラブルなど、日本で起こった原子力関連事故の多くが「想定外」で起きてきたのは何故なのかも彼らの言葉に耳を傾ければ合点がいきます。推進派のいう「想定外」とは「想定できなかったこと」ではなく、解っていながら故意に「想定から外したもの」も少なからず含まれていると思っておいたほうが良さそうです。

原発は安全だと言い張ってきた人たちは「何万年に1度しか起こらない」とか、「何億分の1の確率」といった表現をしきりに用いてきましたが、前提条件が根本的に間違っていればその確率論は全く意味を持ちません。例えば、ネットを眺めると今回の原発事故と1985年に起こったJAL123便の墜落事故との対比を幾つか見かけました。「フェイルセーフ」という思想で複数の系統を確保していながら、それが全て一つのトラブルで破綻してしまったところが共通しているという視点です。

JAL123便墜落事故の場合、当該機(B747SR-JA8119)は操縦系油圧システムを4つ備えており、それらが全てダウンしてしまう確率はゼロに近いと考えられていました。しかし、墜落事故の7年前に起こした尻もち事故が巡り巡って厳しい現実を突きつけたと考えられています。尻もちによる破損の修理が不適切で、後部圧力隔壁が疲労破壊を起こし、その付近を通っていた油圧システムを4系統とも奪い去り、操縦不能に陥ったとの見方が支配的です。

今般の原発事故も電源の喪失が根源との見方が支配的です。各炉とも外部電源とディーゼルエンジンによる自家発電装置2台で3系統、非常用炉心冷却装置(ECCS)にもバッテリーを含む4系統の備えがあるため、全てが作動しなくなる確率はゼロに近いとされていたわけです。が、ご存じのように津波による冠水などで破綻するという脆弱性が考慮されていなかったわけで、この確率論は根本から間違っていたことが明らかにされたわけです。

しかも、こうした事態は世間一般に「想定外」だったと喧伝されてきましたが、実際には津波についても電源の脆弱性についても、既に外部から複数回にわたって指摘を受けてきたことであり、東電はそれを有耶無耶にしてやり過ごしてきたという経緯があります。

津波については東北地方だけでも今回の福島第一原発を襲ったそれより波高の高いものが何度も襲来していました。この史実は民放の報道番組でも示されてきましたから、皆さんもご存じのことと思います。こうしたことを東電サイドが知らなかったということもなく、最近では2009年6月に開かれた原子力安全・保安部会でも地質学者から指摘されていたといいます。

また、電源喪失についても前々からアメリカの原子力規制委員会(NRC)に指摘されていたといいますし、2010年10月にも原子力安全基盤機構から指摘を受けていたといいます。つまり、今回の事故に至った要因は「想像すらできなかったこと」ではなく、具体的な指摘がなされていながら検討を怠っていたと見て間違いなさそうです。東電のいう「想定外」の事故原因は「想定できなかったこと」ではなく、「故意に想定から外していた」ということになるでしょう。

推進派の中には今回の事故を「1000年に1度の天変地異によって引き起こされたもの」といった論旨に世論を従わせたがっている人もいるようですが、それは極めて程度の低いハナシのすり替えです。こんな莫迦げた詭弁にすらなっていない屁理屈に乗せられるのは実に愚かなことです。

ところで、京大の小出氏をはじめとして、反対派の専門家たちは保安院が国際原子力事象評価尺度(INES)に照らした暫定評価を当初「レベル4」としていたことに強く異議を唱えていました。スリーマイル島のそれが「レベル5」でしたから、保安院はそれよりも程度が一段低いと評価していたわけです。が、反対派の専門家たちは初めからそんな判定は論外だと厳しく批判していました。

というのも、スリーマイル島の事故は緊急停止に成功しながら給水ポンプが停止して冷却不能に陥ったという点で今般の事故とよく似ていますが、電源は失っていませんでした。ですから、原子炉の状態についてそれなりにモニターすることができていましたし、ポンプも2次冷却系のメインポンプは故障しましたが、全てを失ったわけではありません。トラブルに見舞われた原子炉も2号機の1基だけで、それに集中すれば良かったという点も大きく異なります。

一方、福島第一のそれは電源の喪失などで中央制御室も使用不能となったため、多くのセンサー類を失い、原子炉の状態は圧力や温度など断片的な情報から推測するしかない状況が続いています。さらに、ポンプも消防車のそれで代用するような状況に陥ったことをはじめとして、冷却システムがほぼ全般的に機能しなくなりました。しかも、複数の原子炉と使用済み燃料プールで同時に温度を制御できなくなったゆえ、同時に対処しなければならないという事態に至りました。

誰がどう考えても福島第一原発が置かれた状況はスリーマイル島のそれを遙かに上回る悪条件が重なっているのは最初から明らかでした。そのせいか、フランスの原子力安全局は当初からこの事故を「レベル6」以上に達すると予測していました。日本の保安院は事故発生から1週間後となる3月18日になってようやく暫定評価をスリーマイル島と同じ「レベル5」に引き上げました。3月27日の会見で「レベル6」に引き上げる可能性も示唆されたものの、半月放置され、4月12日になっていきなり「レベル7」に引き上げられたという経緯になります。

私はその19日前、3月24日の段階で所外評価が「レベル7」に達していることに気づいていました。というのも、この日に内閣府の原子力安全委員会が外部放出されたヨウ素131は3~11万テラベクレルという推測値を発表していたからです。この値の低いほうをとってもINESの「レベル7」の基準となっている「ヨウ素131等価で数万テラベクレル相当の放射性物質の外部放出」に達していますし、このデータには海に漏洩したり投棄した分やセシウムなど他の放射性物質は含まれませんから、それらも含めればもっと悪い値になっていたのは確実です。

ただし、「レベル7」の所内評価は「原子炉や放射性物質障壁が壊滅、再建不能」となっており、そこまで至っているのかどうか公開されていた情報では判断が難しいと考えていました。東電の勝俣会長が1~4号機の廃炉を認めた点を汲めば「再建不能」と見なせましたが、「原子炉や放射性物質障壁が壊滅」というレベルに至っているのか否かの判断は困難でしたから、こうした部分については微妙であると感じていたわけです。

いずれにしても、3月下旬の段階で所外評価も所内評価も「レベル6」以上であるのは確実でした。4月12日なって一気に2段階引き上げられたのには少々驚きましたが、所外評価に関してはその3週間近く前に「レベル7」相当に達していたデータが公表されていたのですから、4月12日まで保安院の判定が過小評価に偏っていたのは明らかでした。

ちなみに、ロシアの国営原子力企業ロスアトムの広報はこの福島第一原発の事故を「レベル6」に達していないという無責任なコメントを出しましたが、これはINFの基準を正しく解釈していない放言に過ぎません。恐らく、こうした過酷事故の評価が悪いほうに振れることで脱原発の流れが全世界的に進み、彼らが商売していく市場が縮小することを懸念した保身のためだと考えるのが妥当なところでしょう。(原発推進に熱心な産経新聞は嬉々としてこのコメントを伝えていましたが。)

散々語り尽くされているように、「レベル7」に相当する原発事故は過去にチェルノブイリしかありません。が、INESに照らしたこの評価を以て「並んだ」とする表現には些かセンセーショナリズムを感じてしまい、私も少し抵抗を感じます。一方、福島第一原発の事故をチェルノブイリと比較すること自体タブー視する人もいますが、その言い分についても私には許容できない部分があります。

チェルノブイリとの比較を嫌う人たちは、炉型が違うとか、アチラは格納容器が存在せず、露天で臨界状態となったまま放射性物質を爆発的にまき散らしたとか、アチラは28人が急性放射線障害で死んでいるけどコチラはゼロだとか、様々な状況が全く違っているから比較するなどナンセンスだというわけです。もちろん、そうした観点での比較は私も意味が薄いと感じますが、事故による周囲への影響やその対処方法など、比較する意味がないとはいえない側面も色々あると考えています。

チェルノブイリは爆発的に放射性物質をまき散らしましたが、福島第一原発はジワジワとであっても長期戦が避けられない状況にあります。福島第一原発にはチェルノブイリの数倍になる放射能があるそうですから、手立てを誤れば最終的にチェルノブイリを超える放射性物質の漏洩に繋がる可能性もゼロとはいえせん。それは東電自身も認めていることで、周辺への影響についてはチェルノブイリとの比較を忌避すべきではないでしょう。

こうしてみますと、京大原子炉実験所に所属する人たちは早い段階から鋭い指摘をしていたと思います。例えば、今中哲二氏は飯舘村の土壌で計測されたセシウム137の値16万3000Bq(ベクレル)/kgは326万Bq/m2に相当するとしています。これはチェルノブイリ事故当時のソ連で強制移住の基準となった148万Bq/m2の2倍を超え、後にベラルーシで強制移住の基準となった55万5000Bq/m2の6倍近い値になります。

この指摘が正しければ、日本政府が4月11日付で同市に対して概ね1ヶ月以内に避難することを求める「計画的避難区域」と定めたのは、チェルノブイリで「強制移住」とされたケースと比べてかなり悠長な判断であるということが鮮明になってきます。チェルノブイリとの比較をナンセンスだと切り捨て、タブー視してきた人たちは、こうした視点も初めから放棄していたということになるわけです。

いずれにしても、当初の「レベル4」は誰がどう考えても言語道断な過小評価でしたし、「レベル6」をすっ飛ばしていきなり「レベル7」に引き上げたのも粗雑としか言いようがありません。それに加えて、主要メディアに露出してきた推進派の専門家たちで当初の大甘な判定について批判している人を私は見た記憶がありません。

朝日系列を除く主要メディアにはあまり出てこない反対派の専門家たちは、初めから政府の過小評価を厳しく批判していました。この点についても彼らのほうが早い段階から正しい指摘をしていたと見なせます。このような「テレビや新聞に出てくるのは御用学者ばかり」と思われても仕方のない状態は今回もネットを中心に広く知られることになりました。

ネットで知れ渡るようになった偏向報道といえば、国内での反原発デモを主要メディアは殆ど報道しなかったという点も指摘しておかなければならないでしょう。ドイツで25万人規模の反対デモが行われたのを筆頭に、この事故をきっかけとして脱原発を求める運動は海外でも盛んに展開されており、その様子については日本のメディアもそれなりに報じていました。

一方、都内だけでも3月20日に渋谷で1000人規模、3月27日に銀座(東電本社前を経て日比谷公園まで)で1200人規模、4月10日には高円寺で1万5000人規模、同日芝公園で2500人規模、4月16日に再び渋谷で1500人規模のデモが行われましたが、その扱いは海外のデモに比べると等閑に過ぎます。日本でもこの事故をきっかけとして脱原発を求める気運が高まっていったのは紛れもない事実ですが、主要メディアはあまりそこに触れたくないかのようです。

東京以外でも、札幌、青森、鎌倉、甲府、名古屋、富山、京都、大阪、熊本、沖縄など、私も把握し切れていませんが、全国的にこうした原発に反対するデモや集会は行われたようです。が、国内の主要メディアはこうした反対運動を実質的に黙殺しました。中国で数百人規模の反日デモが行われただけでも漏らさず伝えておきながら、例の尖閣沖衝突事件のときに日本国内で行われた反中デモはスルーしたあの偏向報道と同じことを今回も繰り返したわけです。

日本の主要メディアがあまり取り沙汰しなかったのですから、海外にもその詳細は殆ど伝わらなかったようで、日経ビジネスオンラインの『脱原子力政策を加速させるドイツ』という記事にも以下のように書かれ、日本人はこれほどの重大事故を経験したのに異様に大人しいと理解されているようです。



>  菅首相の要請を受けて、中部電力が浜岡原子力発電所を停止した。このニュースは私が住んでいるドイツでも大きく取り上げられている。これまでドイツ市民の間では、「日本では福島第1原子力発電所で大事故があったにもかかわらず、なぜ激しい原発反対運動が起こらず、原発停止などの措置が取られないのだろう」と不思議に思う市民が多かったからである。


しかし、実際には渋谷のデモで警察と揉み合いが起こり、2人が公務執行妨害の容疑で逮捕されるなど、決して穏やかでない反対運動もありました。もちろん、私としては反対運動が紳士的でない状態になってしまったことについては残念に思いますが、こうしたエピソードは殆ど話題にされず、世の中的には事実上「無かったこと」にされてしまったという印象が拭えません。

このような報道管制とも取れる状態も「隠し事をしているに違いない」という疑心暗鬼を誘発させたり、「何を信じたら良いのか解らない」という混乱状態を助長したりして、流言蜚語を強力に後押しするのです。

(つづく)
 * 2011/05/31(火) 23:58:30|
 * 世の中に対する私的雑感
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かくして流言蜚語は横行する (その2)

産経新聞、読売新聞、日本経済新聞などは地球温暖化対策というありがちな理由も掲げながら原発推進を社説で声高に唱え続けてきました。今般の事故を受けて朝日新聞や毎日新聞などは原発への依存を減らす方向性についても言及し始めましたが(といっても、太陽光や風力といったいつものおとぎ話に走りがちですが)、従来から強力に原発推進を唱えてきた三紙の考え方は史上二番目の過酷事故が日本の原発で起こってしまった現在も殆ど変わっていないようです。

特に頑ななのは産経新聞で、事故から5日後となる3月16日付主張『複合原発事故 国家危機に総力結集を 生命に危険な段階ではないが』は「地球温暖化対策の切り札」という決まり文句を繰り返し、「冷静な選択が必要」として推進論を堅持しています。また、4月1日付の『東電会長会見 復興に発電力は不可欠だ』では「一時の感情に流されて原子力の否定に傾斜するのは短慮にすぎる。国のエネルギー安全保障上も危険である。」とも述べています。

さらに、国際原子力事象評価尺度が最悪の「レベル7」へ引き上げられたことに対して、4月13日付の主張『福島レベル7 「最悪」評価はおかしい チェルノブイリとは全く違う』で激しく反発しています。これもやはり推進論の障害となる要素を排除したいという意図の現れと見て間違いないでしょう。

私は以前にも述べましたように、原発について「反対派」ではなく「慎重派」です。今般の事故を受けてもそのスタンスが大きく変わったわけではありません。ただ、推進派がせっせと作り上げてきた「安全神話」が崩れ去ってしまったのは揺るがしようのない事実です。その点について何の検証もなされていない段階で、原発推進を「冷静な選択」と主張する産経新聞の態度は却って逆効果になるのではないかと感じます。

メディアが感情論に流されるということは避けなければなりませんが、被害者の心情に対する配慮も忘れるべきではありません。今回の事故のせいでそれまでの生活を維持できなくなった人たちの多くは「原発なんてもうゴメンだ」と思っているハズです(避難を余儀なくされた私の親戚やその知り合いなどは皆そう言っています)。こうした人たちにしてみれば、原発推進を「冷静な選択」とする産経新聞の主張は到底受け容れられないでしょう。

様々な検証を行い、議論を重ね、多くの人が納得できるようなカタチで今後も原発を推進することは妥当だと結論付けるならともかく、産経新聞が原発推進を「冷静な選択」といったのは自衛隊のヘリによる放水もまだ成されていない、応急対策すら手探り状態という段階です。「冷静な選択」という言葉の裏を返せば「脱原発を望むなど冷静さを欠いた判断」とも読めますから、この主張には反感を抱いた人も少なくなかったでしょう。流言蜚語というのは得てしてそうした反感とも迎合し合い、膨らんでいくものです。

一方、日経新聞の社説も言葉の選択という部分で思慮の甘さを感じさせます。3月26日付の社説『原発早期復旧に怠れぬ現場の安全確保』では以下のように結ばれていますが、この論説委員の選んだ言葉はやはり不適切だったと感じます。



> 東電や協力会社はすでに多数の技術者を現地に派遣し、応援体制を組んでいる。復旧作業の長期化を視野に入れ、できる限り手厚く人員や装備を送り込み、現場で働く人たちの安全や健康に十分配慮しながら、復旧を急いでほしい。


ご存じの方も少なくないと思いますが、福島第一原発の1号機は営業運転開始から今年の3月で丁度40年になり、設計寿命を迎えました。一番若い6号機も今年の10月で32年が経過します。当初の計画通りならば1号機はすぐにでも廃炉となるべきで、他の5基も8年以内にその方向で処分を進めていく必要がある年数を経ています。

そこで、東電は昨年3月に最長60年まで機器および構造物を維持できるとする技術評価書を提出、今年の2月に経産省の原子力安全・保安院が10年間の運転継続を認可したばかりでした。こんな古い原発(推進派は「老朽」という言葉を嫌って「高経年」と言い換えていますが、私はそのような子供騙しの言葉遊びに付き合う気などありませんので、単純に「古い」と表現します)が致命的な損傷を負ってしまいました。

冷却のために海水が注ぎ込まれた段階で推進派の専門家も「廃炉覚悟の緊急措置」と見ていましたし、1・3・4号機は建屋上部が爆発で吹き飛んでしまいました。2号機に至っては原子炉格納容器下部に付随する圧力抑制室(サプレッションプール)が欠損してしまったと見られています。(例の超高レベル汚染水もここから漏れ出していると見られています。)

3月20日の会見で枝野官房長官が廃炉についてアッサリと可能性を認めたのも当然で、同30日に東電の勝俣会長が1~4号機について「廃炉にせざるを得ない」と述べたのはむしろ遅すぎたくらいです。いずれにしても、これ以外の判断は現実的にあり得ませんし、実際に東電が発表した工程表もその判断を前提として作られました。

ところが、件の日経の社説にはタイトルを含めると9回も「復旧」という言葉が用いられていました。単純にこれを書いた論説委員が「復旧」という日本語の意味(広辞苑には「もと通りになること。もと通りにすること。」と書かれています)を知らなかっただけかもしれません。が、これをストレートに受け止めたら「当初の設計寿命に達した古い原発であることも知らず、復旧することが如何に非現実的であるかという思慮を欠いたお粗末な社説」と思われても仕方ない内容になってしまったわけです。

この場合、「復旧作業」ではなく「冷却機能の回復作業」とするなり、「復旧を急いでほしい」ではなく「事態収拾を急いでほしい」とするなり、言い回しには配慮すべきでした。このように言葉の選択を誤った論説は説得力を大幅に低下させます。大手メディアの説得力のなさは流言蜚語を後押しすることに繋がってしまうということを自覚すべきです。

また、テレビの報道番組などに「専門家」と称して登場する人たちの多くが原発推進派に属しているという偏りも疑念を増幅させているものと考えられます。原発に関しては「推進」か「反対」かの二元論になりがちという問題もあります(それ以前に近年の日本では「勝ち組」「負け組」のように短絡的な塗り分けが好まれるという問題もあります)が、推進派の殆どは安全性に関してかなり楽観的です。悪いことにはあまり触れず、良いことを強調する傾向が強いのは言うまでもありません。

ま、これは原発に限ったことではありませんが、そういうときには対立意見も同じレベルで扱ってバランスを取るのがジャーナリズムの原則というものです。しかし、新聞や地上波のテレビ番組など主要なメディアでこの事故を解説している専門家の大半は推進派で、それに比べると反対派や私のような慎重派が出てくるケースは非常に少ないといわざるを得ません。そうした状況から「反対派には無知な素人しかいない」と思い込まされている人も少なくないでしょう。

例えば、NHKには東京大学の岡本孝司氏や大阪大学の山口彰氏らが毎日のように出演していましたが、前者は日本原子力学会の資料「原子炉出力向上に関する技術検討評価」で、後者は「地球温暖化防止技術セミナー
―明日からでは遅すぎる―」(←リンク先はいずれもPDFです)で原発を地球温暖化対策に貢献するものと位置付け、効率の向上や利用の拡大を唱えていることからも明らかなように、バリバリの推進派です。

一方、同じ専門家でも京都大学原子炉実験所の小出裕章氏や今中哲二氏ら原子力安全研究グループの人たち、原子炉の格納容器を設計していた元東芝社員の後藤政志氏ら反対派は地上波にあまり登場せず、出てきても充分な時間配分がなされるケースは少ないように感じます。

後藤氏は日本外国特派員協会に招かれて解説したり、CSやCATVなどのニュース専門局である朝日ニュースターの『愛川欽也パックイン・ジャーナル』にも何度か出演したり、精力的に活動しているようです。が、NHKや保守系メディアではあまり相手にされていないようです。

京大の小出氏や今中氏もテレビ朝日の地上波に数分間のVTRで出演していたのを何度か見かけましたが、講演会やネットTVほど言いたいことを言わせてもらえているという感じではありませんでした。それでも朝日系列は反対派の専門家にも意見を求めているだけマトモで、原発推進を掲げてきた政府の下僕としか見えないNHKより遥かに健全な報道ができているという点では褒めておくべきでしょう。

原発反対派の論客にはノンフィクション作家やフリーランス記者にありがちな過激で脅迫的なパターンも珍しくなく、無責任なことを言う人が時々混ざっているのも確かです。が、当然のことながら反対派でも冷静で的確な指摘ができる専門家はいます。私の見立てでは元東芝の後藤氏などもっと主要メディアに取り上げられてしかるべき人物だと感じました。

彼は福島第一原発の3号機および5号機として採用されたものと同型の原子炉格納容器を設計していた人物だそうですから、設計上の許容値やテストデータなど具体的な数値を熟知しています。そうした値を示しながら公表されている現状の値と比較し、許容値をどれだけ超過しているか、テストデータに照らしてどのような不具合に繋がる恐れがあるかといったより詳細な解説をしていました。

最悪のシナリオについて推進派の専門家はあまり触れたがらない一方、反対派の素人は核爆発というようなあり得ないことまで語るなど両極端になりがちです。が、後藤氏は再臨界についても条件が揃わなければ起こらないので可能性としてゼロではないが、極めて低いとの旨を語り、それよりも水素爆発や水蒸気爆発などによる放射性物質の飛散を心配していました。

例えば、格納容器内には元々窒素ガスが封入されているそうですが、その圧力を下げるために何度か行われたベントのときにその一部も抜けてしまったハズだと後藤氏は指摘していました。水素濃度の上昇によって格納容器内でも水素爆発を起こす可能性について、かなり早い段階から心配していたわけです。実際、東電は4月6日から水素爆発を予防するために窒素ガスの注入を行っていますから、その半月以上前から指摘していた後藤氏は正鵠を射ていたわけですね。

一方、NHKなどで解説する推進派の学者たちは概要ばかりで数値の扱いについても具体的な比較をしないまま「直ちに危機的状況へ至る心配はない」といった表現にとどまることが殆どでした。後藤氏のそれに比べると説得力に欠け、予測も甘いゆえ後追いの説明になることもしばしばです。事故前からそうだった癖が抜けないのか、最悪の状況へ至るシナリオについては触れないか、触れたとしてもお約束の確率論でねじ伏せようとすることが少なくありません。

私が特に疑念を抱いたのは東大の岡本氏に対してで、建屋の地下や坑道(トレンチ)などに高レベルの汚染水が溜まっていることが発覚したときのことです。それまでは汚染水の漏洩について特に触れず、その危険性を指摘することもありませんでした。が、3月24日に3人の作業員が超高レベル汚染水で被曝し、それを排除しなければ作業工程も進まないという状況になってから岡本氏は水を得た魚のようにその解説を始めました。

不審に思って調べて解ったのが上掲のリンク先の資料です。彼は燃料の装荷量を増やして出力を上げても冷却系の管理を上手くこなせば安全に運用でき、原発の利用効率向上に繋げられるという研究をしてきた人物でした。つまり、彼は冷却水が原発内をどのように巡っているのか熟知しており、その管理方法やトラブルのリスクについて評価する専門家だったわけです。

汚染水による被曝者が出てからの彼の解説は実に饒舌で、そこまでの認識があるのなら何故事前に汚染水の漏洩による被曝事故の可能性を厳しく警告しておかなかったのかと思ったほどです。このように、推進派に属する専門家の多くは事前に悪い状況を警告する意識が低く、事故が起こった後になってそのプロセスを解説するということの繰り返しといった印象が拭えません。

大手メディアが起用している解説者は影響力が大きい分だけ慎重で、不確実なコメントは避けていただけと理解する人もいるかも知れません。が、次から次に初めて聞くようなトラブルが起こるより、「このような状況ではこうした事象に繋がる恐れがある」といった具合に、事前から指摘されていたことのほうが初めて直面する問題より冷静に受け止められるものです。このケースでは汚染された溜まり水による被曝事故そのものを回避できていたかも知れませんし。

もちろん、パニックに繋がるような可能性をはらむ情報は扱いに慎重さを要します。が、原発内で汚染水が確認されたくらいでパニックになるとは考えられませんし、実際に汚染水が確認され、作業員が被曝したという事故が起こっても一般市民が恐怖に駆られて大騒ぎしたというような事態に至りませんでした。むしろ、こうした予期できる状況は事前に伝えられていたほうが信頼に繋がっていたかも知れません。

私の見聞きしてきた範囲では朝日系列は比較的バランスが取れている印象ですが、NHKのように「出てくるのは御用学者ばかり」と思われても仕方のないような状況は余計な疑念を与えるばかりです。こうした疑念は流言蜚語にとって最大の推進力になるわけですが、残念ながら多くのメディアにはそのような意識が欠けているようです。

(つづく)
 * 2011/04/25(月) 23:58:41|
 * 世の中に対する私的雑感
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かくして流言蜚語は横行する (その1)

東日本大震災で被災された皆様に謹んでお見舞い申し上げます。

あれから1ヶ月が経過しました。私の場合、被害といえる程のものは特になく、当日は公共交通機関が全面的にストップしてしまった関係で帰宅するのに大変苦労したということが一番の悪影響だったでしょうか。友人や職場関係者など、日常的に交流のある人たちの多くも大した影響はなかったようです。

が、私の父は福島県南相馬市(旧原町市)の出身で、そちら方面に多数いる親戚は未だ厳しい状況が続いています。一番大変だったのは従姉(私の父の実家を継いだ叔父の娘)で、嫁ぎ先の浪江町が津波で甚大な被害を受けました。彼女もその家族も無事に避難できたのは何よりでしたが、家は流されてしまったそうです。

そのため、実家(私の父の生家でもあります)へ戻ったのですが、翌日の夕方には福島第一原発の避難指示区域が半径20kmまで拡大され、退去を余儀なくされました。避難所生活もシンドイということで、飯舘村にある伯母の家に叔父夫婦と従兄姉とその家族、都合3世帯で身を寄せることになりましたが、飯舘村も一部が30km圏の屋内待避地域となってしまいました。伯母の家は30km圏から辛うじて外れていますが、風評による影響もあったのか、物資の供給不足が続いていたそうです。

そうした事情から飯舘村は栃木県鹿沼市に避難所を確保し、希望者は貸切バスでそこへ移動できることになりました。が、飯舘村が村民のために整えた避難体制だったゆえ、南相馬市民である叔父や従兄一家、浪江町民である従姉一家は対象外ということで、バスに乗ることも許されませんでした。幸い、従姉の旦那さんが情報通だったお陰で何とかガソリンを工面できたため、クルマで首都圏に住む親戚筋などに散らばり、私の実家も叔父夫婦と従兄のお嫁さんとその子供(といっても高校生ですが)の4人を預かることになりました。

今般の震災は揺れそのものによる家屋の倒壊といった被害よりも津波によるものが圧倒的だったようですが、それに追い打ちをかけるような原発事故には身内が大きな影響を受けたこともあって、私も心を痛めています。叔父の家は大きな揺れで一部損傷があったものの、生活には全く支障ないレベルだったといいます。原発事故さえなければ避難する必要もなく、物資が入って来ないといったこともなかったでしょうから、生活も成り立っていたハズです。

現在は一刻も早い収束を祈るばかりですが、家を失った従姉はもちろん、原発から20km圏内で農業を営んできた叔父も元の生活に戻れるかどうか、放射性物質の飛散やそれにかかる風評がどう落ち着くかによって大きく左右されます。残念ながら、南相馬市でも土壌汚染が確認されてしまいましたので、厳しい状況がどれくらい続くことになるのか、廃業を迫られることになってしまうのか、今後の見通しが全く立たなくなってしまいました。

政府はパニックを抑えたいという意向を働かせていたのか、単純に情報収集能力が未熟だったのか、あるいはその両方か、情報不足の感が否めませんでした。それが「重要な情報を隠している」という印象に繋がっていたようにも感じられます。もちろん、本当に隠していたのかも知れませんし、3号機のプルサーマルのように聞かれなければあえて触れないというケースもあったかも知れません。

いずれにしても、情報不足を厳しく批判されたことで善処しようとした結果なのかも知れませんが、次第に情報量は増えていきました。しかしながら、現在でも極めて雑然しており、その質は決して向上していないように感じられます。枝野官房長官などは何度となく流言蜚語に惑わされないよう呼びかけ、ACジャパン(公益社団法人なので政府と直接関係ありませんが)のCMでもその旨を繰り返していますが、流言蜚語が横行してしまう状況というのは情報開示が中途半端だったり、整合性が欠けていたり、錯誤が含まれていたりするときに横行しやすいものです。

そもそも、菅首相や枝野官房長官をはじめとして政府関係者は根拠がないなら気安く楽観的なことを言うべきではありません。例えば、原子炉に海水を注入するというのは廃炉覚悟の最終手段といっても過言ではありません。この注水もご存じのように電源の喪失で既設のポンプが作動しないため、消防車(ポンプ車)を流用するという、極めてイレギュラーな対処法でした。ちなみに、2号機の2度目の空焚きで燃料棒が全面露出したのはポンプ車の燃料切れに気付かなかったという不注意が招いたものだったそうです。

もちろん、既設のポンプが止まっている以上は本来のルートでキチンと水が巡るということもないでしょう。注いだ水がどこへ行くかといったことも当初はロクに考慮されていないようでしたから、様々な問題が次々に噴出していったわけですね。初期に行われたヘリコプターや放水車などで外から海水をぶっかけるという極めてプリミティブな施策も、他に即応できる有効な手立てがなかった泥縄状態を示す証左です。

枝野官房長官は3月13日に「原子炉はコントロール下に置かれている」などと言い張りました。これはヘリコプターや放水車が投入される前で、それこそポンプ車によるイレギュラーな注水くらいしか行われていない綱渡り状態だったときの発言です。こんな弁解にもなっていないハッタリを真に受けるほど国民は莫迦じゃありません。また、彼は同じ日に「水素が漏れている可能性があるが、ベント(排気)しているから(大丈夫)」ともコメントしていましたが、翌日に3号機の建屋上部が水素爆発で吹き飛んでしまいました。

他にも色々ありますが、3月21日の午後4時から開かれた緊急対策本部で菅首相が「まだ危機的状況を脱したというところまでは行っていないが、脱する光明が見えてきたということは言える」と発言したのも明らかに早計した。それは3週間が経過した現状を誰がどう見ても明々白々でしょう。

彼は海水の注入で原子炉の温度に低下傾向が見えてきたことからそのような発言をしたようですが、核反応が停止しても崩壊熱は何年も出続けます。冷却とのバランスが取れなければ温度など簡単に変動してしまうという極めて初歩的なことすら知らなかったのでしょう。実際、その3日後には1号機の炉内温度が400℃まで上昇してしまいましたし。

しかも、彼が「光明が見えてきた」と発言したのと同じ日、ほぼ同じ時間帯に3号機から灰色の煙が発生し、しばらく全作業員を避難させるという事態になってしまいました。彼の「光明」発言と、発煙による退避で作業中断を余儀なくされた模様が夕方のニュースで同時に伝えられるというお粗末な結果になってしまったわけです。このように菅首相や枝野官房長官は個人的な印象で安心できる状態かと勘違いさせるような発言を繰り返していましたが、ことごとく裏目に出てしまったといっても過言ではないでしょう。

現在も1~4号機についてはイレギュラーな注水で何とか温度を維持しているに過ぎず、いつになったら冷却水の循環システムが必要なレベルで動かせるようになるのか、その目処は全く立っていません。また、タービン建屋などに溜まった極めて高レベルの汚染水を排除しない限り作業員の被曝量管理が難しい状況になってしまい、その汚染水を復水器に汲み出すまでに幾つものハードルを越える必要が生じてしまったのもご存じの通りです。

その高レベル汚染水が海にダダ漏れになっていたり、それを塞き止めるのに4日も費やすことになったり、やっと止めることができてもキチンとした管理下で貯蔵できる準備に時間がかかったり、貯蔵できる水の量に限りがあるため低レベルの汚染水を海洋投棄するという前代未聞の暴挙に出るなど、問題が次々に山積されていき、殆ど進捗を見ない状況に陥っています。作業が進むにつれ、悪条件が幾重にも重なっているということが次第に解ってきたわけですね。そのうちの幾つかは単純な判断ミスに起因しているものもあるでしょう。

こうした状況は専門家たちも予期できていたとはいえませんから、政治家ごときにキチンと見通せとまではいいません。が、そうした見通しが立っていないなら尚更のこと、軽口は慎むべきです。総理大臣や官房長官という国家の最高責任者たちの発言が流言蜚語と同レベルのアテにならないものだったということが続けば、「何を信じたら良いのか解らない」と国民が思ってしまうのは当然の帰結です。

良い情報も悪い情報も隔てなく、キチンとした根拠を元に正しく詳細に開示され、それが周知徹底されていれば、いい加減な憶測から生じた流言蜚語が付け入る隙は生じにくくなるものです。流言蜚語や都市伝説の類が横行している状態というのは、適切な情報が充分に行き渡っていない状態の裏返しと考えるべきです。「流言蜚語に惑わされるな」という前に、そのような状況に陥っているのは自分たちの対応や認識の甘さにも大きな原因があると自覚しなければいけません。

こうした準備不足・勉強不足は当然のことながらメディアにもいえます。当初は放射線量の情報を伝える際にも「何マイクロシーベルト」とか、「何ミリシーベルト」というのみで、「毎時」なのか「毎分」なのか「毎秒」なのか、時間の単位が伝えられない非常にいい加減な報道が続きました。時間の単位が違っていれば数値が示す意味も桁違いになってしまうわけですが、当初はそうした点が忘れられることも決して少なくありませんでした。

また、そうした基本が解っていない記者が多かったゆえ毎時の放射線量と一瞬でしかないレントゲン撮影時の被曝量とを比較し、「レントゲン撮影の何分の一だから直ちに健康に影響を与えるレベルではない」などと積算被曝量を無視したお粗末な記事が横行してしまったのです。

こうしたことも散々突っ込まれたせいか、テレビでも放射線量を伝える際に「この数値は毎時のマイクロシーベルトです」といった感じで強調されるようになっていきました。が、それは混乱しがちな初期段階でこそデリケートに扱われるべき部分でした。文系出身が圧倒的に多いメディア関係者は今回の事故で初めてこうした基礎を知り、指摘を受けながら報じ方を修正しているといったところでしょうか。当blogでは何度となく述べてきたことですが、「若者の理科離れ」を憂うよりも、「メディアの理科オンチ」を先に何とかすべきです。

(つづく)
 * 2011/04/12(火) 23:10:16|
 * 世の中に対する私的雑感
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環境問題を語る人たちは何でこんなに視野が狭いの? (その1)の訂正と補足

この連載の初回で日産のリーフについて「あれだけ長いリードタイムがありながら60台しか登録されなかったということは、要するに補助金の申請手続にかかる時間など全くの無関係で、単純に日産の供給台数に縛られたと考えて間違いないでしょう」と書きましたが、実際にリーフを購入された方からこの推測が誤りであるとのご指摘を頂きました。

この方からの情報によりますと、日産はリーフのパブリシティを行った昨年12月3日より前には正式な見積書の発行をしていなかったとのことです。当然、その段階では注文書や契約書の類も交わせないでしょう。つまり、補助金の交付申請に必要な添付書類が揃えられたのも12月3日以降という状況だったようです。

こうした状況を確認せずに思い込みで書いてしまったという点では私も反省する必要があると思います。が、補助金の公募スケジュールを把握している人間からしてみれば、日産がここまで出鱈目な販売スケジュールを組んでいたとは、常識に照らして想像すらできなかったでしょう。まずは補助金の交付手続を処理している一般社団法人・次世代自動車振興センターの「平成22年度 公募のスケジュール」をご覧下さい。

この連載初回でも触れましたように、国から電気自動車に交付される補助金の今年度公募期間は5回に分かれています。リーフの発売日である昨年12月20日に合わせて補助金の交付決定通知を得ておくなら、第3回ないし第4回の段階で申請しておく必要がありました。ちなみに、交付決定通知にも有効期限があり、第2回分は10月末に切れてしまいますから、それ以前の申請でもタイミングは合いません。

なので、昨年8月1日から11月30日までに手続を済ませておく必要があったわけです(第3回で交付決定通知を受けても12月末に期限が切れてしまいますし、陸運局も土日や23日の天皇誕生日、29日以降は休みですから、登録可能な期間は非常にタイトになりますが)。11月末の締め切りを過ぎてしまったら、その次は第5回になりますから、予定通りであれば交付決定が下りるのは今年2月中旬頃になってしまうわけです。

ただし、「交付決定通知書」が出る前であっても「交付申請書受理通知書」が届いた時点で登録できることになっています。が、この段階では審査に合格しているわけではありませんから、補助金が確実に交付されるという保証もありません。審査にハネられた後で条件を整え直し、再申請を行いたいと思っても、登録してからの申請は認められません。

つまり、交付決定通知を受ける前の登録は相応のリスクを覚悟しておく必要があるわけで、普通の人ならそんなギャンブルに78万円もの大金を賭けようとは思わないでしょう。こうしたユーザーへの便宜を考慮しないような殿様商売など、日本の自動車業界の常識ではあり得ないことです。

言うまでもありませんが、こうした公募スケジュールは今年度に入る前から公表されており、関係者なら申請にかかる規約と共に知っていて当然のことです。リーフの発売日に合わせて一般ユーザーにも無難に納車できるようにするつもりだったら、第4回の締め切りに間に合わせる必要がありました。そのためには正式な見積書などを遅くとも11月下旬までに発行していなければならなかったわけで、それも最初から解りきっていたことです。

電気自動車を求める一般ユーザーにとって補助金の申請は当然の手続ですし、現実問題としてメーカーも補助金抜きに電気自動車の市販は考えられないでしょう。リーフの価格も補助金の交付を受けて300万円を切るという格好で設定されたのでしょうし。ですから、日産の関係者が揃いも揃って補助金の申請規約や公募スケジュールを確認していなかったなどということは絶対にあり得ないでしょう。

逆に、それを知りつつ発売後2ヶ月近く待たなければ安心して登録できないようなタイミングまで必要書類の発行を遅らせるといったことも常識的にはあり得ないでしょう。また、とっくの昔に販売価格を発表し、大々的にそれをアピールし続けておきながら、肝心なときに見積を出すことが出来なかったという点も全く理解のしようがありません。

が、実際にリーフを購入された方の情報によりますと、日産はそうしたあり得ない出鱈目な対応をしていたわけで、さすがに私もここまで支離滅裂な状況は想像できませんでした。常識に照らしてあり得ないような状況をも想定し、確認作業ができるという人はかなり奇特だと思います。残念ながら、私は日産がこれほど間抜けな(もしくは不誠実な)企業だったというところまでは見抜けませんでした。

そもそも、リーフの発売時期や価格は発売の1年以上も前からアナウンスされていました(価格の正式発表は2010年の3月30日でしたが、それ以前に告知されていたものと変わりませんでした)。あまつさえ、ゴーン社長はフジテレビの取材に対して「政府や街にどのようにインフラを構築すべきか、消費を促す補助金システムがつくれるか、EVに興味を持っている世界の街に指標を提供することができます」などと豪語していました。

リーフに関して「先走り過ぎでは?」と思うような行動を重ねていたうえ、電気自動車の補助金システムの指標を世界に提供できるとまで言い張っていた彼らが、発売日から2ヶ月近くも経たなければ補助金の交付決定が下りないようなタイミングまで必要書類の発行を遅らせてしまったのは何故なのか、この矛盾を彼らはどのように説明するのでしょう?

いずれにしても、補助金の公募スケジュールは初めから決まっていたことですから、それに合わせられなかった日産側の問題であることに違いはありません。ロイターの記事は「購入補助金受領の手続きに時間がかかる」としてあたかも次世代自動車振興センターのお役所仕事にも原因の一端があると読み取れるような書きぶりでしたが、これは実情を歪めた印象に繋がる恐れがあり(日産はあえてそこを狙ったのかも知れませんが)、やはり程度の低い報道と見なさざるを得ないでしょう。

といいますか、「今は日産にセンターから連絡が入って、どんどん先に登録しろみたいなことに変わったらしい」とのことですから、次世代自動車振興センターは本来のあり方を返上し、かなり柔軟に対応しているという状況になっているのかも知れません。こうした状況なら日産のスケジュールの組み方が悪かったせいで遅くなっていたものを同センターの計らいで早められているということになり、ロイターの記事から受ける印象と真逆の状況といっても過言ではないでしょう。

あくまでも仮定のハナシですが、製造上の問題など何らかの支障があって日産はリーフの本格的なデリバリーを開始するまで少し時間稼ぎをする必要に迫られていたとします。その問題をぼやかすため故意にタイミングを外し、「補助金交付申請の手続上の問題でもある」といった方向へハナシをすり替えようとしていたなら、次世代自動車振興センターはスケープゴートにされたことになります。

一方、こうした状況に同センターが置かれたとしたら「そんな謂われのない批判にさらされるなどゴメンだし、予算もタップリ余っている(※)し、多少の不備なら目をつぶって交付を認めるからとっとと登録しろ」と言いたくなるかも知れません。(※今年度分123億7000万円の予算に対して第4回までの交付決定で19億7000万円強しか消化していません。ということは、104億円近く余っているわけで、これはリーフなら1万3000台分を超えます。)

ま、これは私の勝手な妄想に過ぎず、レベルの低い邪推なのかも知れません。が、もし、万が一、このような状況が事実だったなら、補助金が私たちの血税を財源にしているということが軽視されている憂うべき状況といえます。また、「エコ」という魔法のキーワードを使えば何でも大目に見られるとしたら、そこにつけ込む悪い人間は山ほどいるでしょうから、いつかきっと後悔する日が来るでしょう。

個人的なことで恐縮ですが、私にとって日産はホンダと並んで好きな自動車メーカーの筆頭でした。今般の電気自動車をめぐる彼らの出鱈目な発言や行動を見ていると、私の中にあった日産の良いイメージがガラガラと音を立てて崩れていくばかりで、心底残念に思います。
 * 2011/02/19(土) 21:01:50|
 * エコロジスト?
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Author:石墨
元自動車業界人で現在は機械メーカーに勤める日本人です。

趣味は自転車とクルマとカメラということにしていますが、知人に言わせれば「一番の趣味はマスコミ批判じゃね?」とのことです。

座右の銘は「君子は豹変す」です。間違いと解ったら速やかに見解を翻しますから、当blogでも断りなく修正/削除を行う場合があります。




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