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MORLD.JOURNAL 可能性とモチーフ 「死刑は人間の可能性を根源から否定している」 葛城事件という映画でヒロインが叫ぶ持論だ。僕はこの主張こそが人間を根源から否定していると感じる。死刑囚と獄中結婚をしたというから随分と頭のネジが飛んだ人だなと思ったが、この主張を聞いて単なる阿呆であることがわかった。自分の考えがいかに浅薄であるか気付けず、とても大切なものを安易に失ったたわけ者だ。こういう人物のことを深く知っても僕の人生にはなんの足しにもならないと思いながらも、誰かの表現でもある映画は最後まで観た。 死刑の是非については、僕も確信が強くある訳ではない。ただ、巨大だがほぼ見えない抑止力としてある程度はうまく機能していると思うし、ルールを破って誰かを傷付け自滅していく人について、他者がその命を絶ってはいけないなどとは思えない。僕がヒロインを阿呆だと言っているのは、人間の可能性というものを言葉通りのまま盲信して他人を傷付け自滅へと向かっていたからである。悪いことをした人が改心する可能性はゼロではない、が、可能性とはあるかもしれないしないかもしれない経緯や結果の分岐の存在を示しているだけであり、そのうちの全てが起こる保証などどこにも無い。つまり、分岐の1つとして示していながらも、絶対に起こらない分岐である可能性がある。このような不確定で確信不可なことを信じて自分の大切な人を傷付ける行為をする者が浅薄なたわけだと断ぜずにはいられない。 ◆ 7色x100個の玉をいっぺんに7 x 100の枠に向かって投げたとき、虹のように綺麗な7つの色の列ができる可能性。確率論から言うとごくわずかな確率で起こり得る出来事である。しかし僕たちは経験的にそんな結果はあるわけないと分かっている(一生を賭けたとしてもすべての玉が枠に収まることさえ奇跡だ)。ランダムに起こりうることは実際には満遍なくは起こらない、これを違う方から見ると、僕らが想像・体験するような短期間・少試行では偏ることが当然の結果だと認識できることなのだ。加えて意識できない干渉まで存在する(上の例だと言葉だけでは気付かない枠に収まらない現実)にも関わらず、それらに蓋をして可能性は無限大という話に目を向けさせるからおかしな勘違いが多く生まれている。でもそういう勘違いから偶然生まれる結果もある可能性までは否定できない。否定はできないが自身の理解として第一歩目の時点からどう捉えるかはとても大切である。21世紀に向け可能性という言葉が蔓延り、今は多様性が蔓延ってきた。いずれも勘違いにまみれやすいことは理解したいし、安易に口にする人の言うことを信じてはいけない。 ◆ お金が無いと大切な人も大切にできないって言葉をみかけて、正直驚いている。大切にするの意味が狭すぎてなんともはや。。。人の人生はあなたのじゃない。そのコンプレックスの深さに早く気が付けると良い。自分のことだろう。あと、足りないなら稼ぐしかないだろう。誰ともなく。 ◆ モチーフとモチベーション、とても近い意味の言葉でありそれぞれが別の言葉で代替しにくい微妙な意味を含んでいる。しかしカタカナ英語になってしまうと、モチーフは何かの物質であり、モチベーションはなにか上がったり下がったりするもの、と思い込まされてしまう。本当におかしなことだ。文化や思想の異なる外国から入ってきた意識であるが、これらは生きる上でとても重要な言葉である。 日本語に直訳すると、動機やきっかけが一番近いだろうか。直訳で考えてみてもわかる、きっかけが上がるだろうか?動機の根源が自分の外側にあるだろうか?カタカナ英語らしい狭義な意味で、モチーフにする物を探すとか、モチベーションを高めるというように使っている。さも創作や生活の中で正しくあるために誠実にいるためにそうしなくてはならないと意識させられたり教え込まれる。そのせいで本来の意味が大きく損なわれ、その分、意識も届かなくなっている。モチーフを見出せること、モチベーションを感じることは僕たちの人生の根元に関わる大切なことだ。全人類にあてはまるし、そこを飛ばして他人を理解しようとしても真逆を向いているようなもので相手のことが見えようはずもない。本当にとても大切な言葉であり、上がったり下がったりなんて浅い認識とは程遠い事柄である。 例え話を挙げてみる。鳥の羽がカッコいいから真似をしようと思ってやってみた。この時、かっこいいから真似をするということがモチーフでありモチベーションである。どう真似するか何を真似するかは分解すれば出てくるが、鳥の羽だけがモチーフで、カッコいいだけがモチベーションとは言い難い。よくよく考えれば羽に目が向くそのあなたの生きてきた道の先に辿り着く場所である。その積み重ね込みで意味があり、そういうことを含めてのモチーフである。 少し話が外れるが、ビジネスワードではWhyが重要とかWhyとは何だとか言っている人もいる。Whyは単なる疑問副詞だ。馬鹿みたいな指摘だがそれはそうとしか言えない。その語自体に意味は無く、それに関連する話題が物事の前提を扱うというだけのものである。Whyを考えることに意義はあるものの、Whyを考えるぐらいならMotifを遡って考える方が的を射て有意義であろう。MotivationはMotiveの名詞、MotiveはMotifから来て、MotifはMotif(仏)から来ている。 仏から米へ渡る過程でも変化はあっただろう(実際は仏英米だと思うからそれほどでもないかもしれない)。しかし遠く離れた日本に着きカタカナとなった。このカタカナ英語の罪は本当に大きい。発音の誤解もさることながら、狭義な意味で使わされる現状がある。この話題に限ることではないが、どういう切り口であれ範囲の狭い枠の中にいては生きることの良さを実感しにくくなっていく。カタカナになる英語は流行り言葉みたいなもので、流行りの時期にはそれほど生活に密接な関わりがない言葉たちだが、それが根付いてしまうと生活や人生に大きな影響を与えてしまう。カタカナ英語は便利だがもっと厳密に扱うべきだろう。嫌悪する人が多いのもこの辺りの感覚を自然に感じるからだとも思う。 投稿者 morld.journal : 00:45 | コメント (0) | トラックバック (0) 貧すれば鈍する 貧すれば鈍する。 誰の言葉かはわからないが、言葉の成り立ちを想像すると一般的に使われている意味と全然違う、なかなかすごい言葉だと思う。この貧をお金が無い、もしくはそれに類することだと思っている人は鈍しているっていう謎の試練を含んでいる。貧しさは心の問題で、社会での成功度合いは関係無い。「貧すれば鈍するだね」と言っている人を見れば分かる。よくよく想像すれば分かる。鈍くない人はこんなことをわざわざ言わないものだ。この言葉を思いついた人は実に頭が良い。鈍した人の発見機である。 ◆ 少しむかし、日本語の体は體だった。肉體の意味が体であるところから、體とは骨が集まって形を成している存在、と思えた。そういう次第で、具体という言葉の意味は表層に限らずその内側にある骨格も含めた詳しさを指すことになる。具体・抽象を要因・結果みたいに扱うのはつまらない。以前気付かされた「認識できているかどうか、知覚できているかどうかで考えると、日常耳にするような多くの抽象と具体は逆転する。」を思い出した。 ◆ https://youtu.be/bvyRyesnKE4?t=596 希望を持たないことをひけらかしている。 ものの見方が浅い。 人間に対する共感が薄い。物事が機械的である。 安く作ってある。美しくない。 子どもをエサにビジネスをしようとする力が強過ぎる。 子どもたちが現実を知る時間をアニメーションが ゲームが奪っている。 とても共感できた。そのこととは別に、いやそれを踏まえてかもしれないが、宮崎駿さんはこの一連の出来事で得た手応えを、今どう思っているんだろうかとても興味がある。 ◆ ミステリー小説は犯罪を助長したか。した。 ホラー映画は犯罪を助長したか。した。 残虐なストーリーの漫画は犯罪を助長したか。した。 創作アニメは犯罪を助長したか。した。 それぞれに相関関係はあるとみるのは間違っていない。が、それを要因とできるほど深刻で確実な相関性はいずれにも無い。常識で考えてわかることをわざわざひねってこじつける人の頭が悪いのだ。こういう人はマスコミに限らずアカデミックな人にも多いし、ポリティカルックな人にも多い。このこじつけは倫理がおかしいための行動だ。何でもアリではないことを充分に知ろうと思う志向性が必要で、それを問題視することが先決である。言論も表現も自由であるが、自由は何でもアリを示唆していない。 ◆ 文学の中の世界を外に持ち出すと血生臭いというか外に出す必要あるの?と思う。文学の、なんていうと語弊が大きいが、ここでの狭義な文学とは生に根ざした言葉の連なりではない書物の総称のこと。それが小説に重きを置いてお金の呪縛から逃れることを諦めた文学という学問であるという僕の独断。 ◆ 村八分という言葉。これを聞いて、田舎社会での除け者や差別を思い浮かべたり、そこから噂話体質や過干渉などを連想したりする人がいる。過疎地に限らないが、人の出入りが激しい場所ではないために流れ上、立場や財産に上下ができる。だが、社会性の優劣や経済状況が違っていても、村の一員である以上は村八分まで(火事と葬式は手伝う)、それ以上の無視は集落の損失に繋がることを共通認識にしていた。燃え広がることも疫病のはじまりも村全体の問題だからとも言えそうだ。 ところが、今ではある範囲のご近所付き合いであっても完全無視がまかり通っている。ここら辺を考えるとき、村八分が存在する地域の社会的な責任感はとても強いものだなと思うし、部分的にみれば関係性の改善する余地を残している。つまり村八分とは悪者・弱者側からみれば有難いもので優しさの現れた言葉なのだ。それを何を履き違えたのか、新しい人が馴染めないで追い出される偏屈な地域、それが田舎であり、田舎に入ると村八分にされるかもしれないという恐怖だけが言葉とともに取り沙汰されてしまっている。 極端に言うと、村八分という言葉に対し田舎のことだと思い込み、さらには仲間外れにされる恐怖だけにフォーカスし、田舎を評価している節がある。こんなとんでもない評価を見過ごしているとおかしなことになるし、本当に仲間はずれにされたとき、どこを反省するか、何を改善しようと思うか、こういうことが頓珍漢なことになってしまう。 また、こういう認識が広がりすぎて、田舎の人たち自身もそういう意識を強くもってしまって、警戒している新入りをはじめから強く警戒するような人も少なくない。町内会長や区長などがこういう毒され方をしていると、その人が変わらない限り新しい人が根付くのはとても難しい。都市発展に伴い過疎のまま人が減り村が消えていくのは後々大きな問題になる。難しいのだが、自分勝手をされるリスクを背負ってでも新しい人を迎え工夫していくしかないだろうと思う。 投稿者 morld.journal : 00:24 | コメント (0) | トラックバック (0) 魚の骨、食べる物、お米 魚の食べ方について。 僕に限った話ではないが、幼少期から食卓に魚が出るといつも、骨には十分に気をつけなさいと言われ続けていた。特に鯛の骨は硬く、喉に刺されば一大事であると聞かされていた。確かにその通りである。だが、20代中頃までの僕はあまりにも骨に気を奪われてしまって、魚の身を味わうことよりも口の中で骨を探すことに注力して食べていた。魚の身を箸で口へと運び、身を恐る恐る噛みながら舌の上で解くように小さな骨を見つけては口から出し皿へ戻す。こうして食べていると確かに骨の危険を避けることはできる。でもあまり楽しい食とは言えない。しかも、食べている最中も食べ終わりも綺麗とは言い難い。 そんなこんなで今の僕はといえば、魚定食屋さんの女将さんから綺麗に食べてくれるねぇと言ってもらえる程度には魚を食べるのが上手くなった。その一方、魚を食べるのが面倒だ、進んで食べたいと思わない、実際食べ方が綺麗ではない、ような人にもちょくちょく出会う。過去の自分の体験から思うのは、魚を綺麗に食べられないのは骨や皮を食べないからである。好みもあるから難しいところだが、大体の骨は食べるようにすると色々良い。骨の食べ方は単に普段の3〜4倍ぐらいの回数で骨を意識して噛む、これだけだ。 魚が苦手な人へより具体的に言っておくと、生から火を通したイワシ秋刀魚アジなんかの小骨は食べられる、鯖やホッケといった一夜干しは背骨以外食べられる、しっかりした干物は大きすぎない背骨なら丸ごと食べられる、ということだ。実際に食べられるかどうかの細かな判断は口に入れればわかるようになるから、その辺り意識して食べると良い。ちなみに、これは僕だけかもしれないが、骨髄を多く含む頭や背骨のような骨をたくさん食べるとちょっと気持ち悪くなるので、同じタイプの人はご注意を。 こういった話を僕が中学生の頃にでも両親から聞いていれば良かったのだが、幸か不幸かその機会なく自分で気付く機会を得た。とにかく、特にお子さんへはただただ魚の骨が危ないとだけ伝えることはやめた方がベターだと思う。 ◆ 種無しの果物が苦手だ。あれ、全部似た味になってるよね。ある特定の掛け合わせがあるんだろうか。種類はなんでも良いが種の中身を食べたことがあるだろうか。僕は小さい頃、梅の種の中身を時折食べていたが、種無し果実は果実全体があれに似た味になっている。便利なんだろうが平生食べる分には美味しくないと言える。大切なのでもう一度言う。種無しの果物は美味しくない。 ◆ 白いご飯を好まない子が増えているそう。洋食など派手な味のものが多いせいだとか、近頃の子のわがままだとか、舌がおかしくなっているとか、色々言っているが僕的観点から言えば答えははっきりしている。惣菜屋さんのおにぎりやご飯もの寿司類、安すぎる古米みたいなもの、無洗米、こういうものを食べる機会が多い子が白米は苦手と言っていると思う。 子の味覚について、甘やかしたからわがままになってしまったという場合も無いわけではないが、振り返って昔から今までの流れを考えてみれば、致命的な原因の一つは親の教育や子のわがままではなく、食品そのものにある。つまり、美味しくないから食べたくないのだ。 僕らの年代で顕著なものはグリーンピースだろう。チキンライスなどに色添えも兼ねて入れられるあれを嫌いな人は少なくない。人参も同じだ。あのあたりを嫌いになった原因は、グリーンピースをもっとも食べた機会が多かったであろうミックスベジタブルのせいだと思う。僕は子供の頃から冷凍庫の味がするあれらをよく思っていなかった。ただ、食卓に並んだものは食べきる習慣が強くあったので美味しくないと思い食べていた。 ・シーフードミックス ・醸造酢 ・サラダオイルの揚げ物 ・昔の冷凍食品 この辺りも子供の頃からちっとも美味しくなかったので、多くの人の好き嫌いの原因を生んでいる感じがする。 上で挙げたような食品は今では大きな改善をしているかもしれないが、代わりにまた色々出てきていると思う。冒頭で挙げたご飯類は年々酷くなっていて、特に個人的には無洗米は本当にやめた方が良いと感じる。いくつか試したが、どんなお米も似た香りになってしまっていて、その香りがどれも同様に甘くて気持ち悪いのだ。コシヒカリに似せたのはわかるが本当にどうかしている。 通っていたお米屋さんが少し詳しく教えてくれたが、無洗米の機械の中はお米屋さんも何をどうしているか知らないという。ただ無洗米機メーカーの機械へお米を入れたら無洗米になる。玄米を削った糠を科学的に処理し、出来上がった白米に纏わせているそうだが、その処理に関する一切がブラックボックス化されていて、機械を導入したお米屋さん自体は手が全く出せない状態だそう。 そのお米屋さんとも、正直やっぱり美味しくないよねと言い合っていた。そんな人がなぜ売るかと言えば、買いに来る人がいるからだ。そんなに手間は変わらないだろうに。排水が濁り環境問題を生んでいると言う人もいるが、僕はそれが環境にとって深刻な問題だとは思えない。 あっとまあ、今回は環境の話じゃなく、お子さんが好き嫌いするとき、大部分は性格から来る拒否というか有り体に言えばわがままだが、そればかりではなく、どうしても食べないものには違う理由があると思ってあげてほしい。白米を食べないなんて理由は95%ぐらいそれが美味しくないからである。苦手すぎる子なら、きちんと炊いたまともなお米でまともでシンプルな炊き込みご飯でも作って、徐々に味をオカズへ移行していくような感じで何とかなると思う。お米の良し悪しがわからない人は焼物の釜を買って自分で米を選んで炊いて、4〜5種類買い替える期間ぐらい食べていれば必ずわかるようになる。 逆に言うと、それ無しにはたぶん分からないと思う。何をどういれてこの味になっていると理解した上で食べていない人は一生わからないかもしれない。誰かが作る色んな料理を食べているだけの人に、より繊細な味覚は絶対に育たない。食材を真っ当に理解していない僕も、このままの食を続けていても食材を扱う人の繊細な味覚には近付けない自信がある。どのレベルの味覚で満足するかは人それぞれだけど、子の好き嫌いぐらいの範囲で止まってしまうと本人がとても困るので、そこは親がなんとか考えてあげてほしい。 投稿者 morld.journal : 01:45 | コメント (0) | トラックバック (0) 運転、英雄、語句 ミニチュアを集めて箱庭を作るような神さま的視点は面白いのだけど、心情が真剣にならない。ディテールを削ぐ方向もそういう感じに似ていることがある。見せようによってはスタイリッシュに見えるけどシリアスじゃないから、使いどころを誤ると一気にカタンとひっくり返ってしまうバランス。 ◆ 口語に任せていると調子を調える語句が消えたり現れたりする。もともと意味を含んでいても語調に合わせて消えることがあるだろうから、意味が失われたり変わってしまうこともある。英語のhやkなどは口語に任せて消えたとしても、そもそも文字に意味を含んでいないので問題無いのだろうが、日本語の場合は英語がそうだからと外国の基準を持ち込んではいけないことがこの頃は多いだろう。 ◆ 英雄色を好む。こんな言葉はゴマスリか、自己弁護のための嘘だ。格言のような顔をして、共通認識として認めている感じになっているが、全く正しくない。こういう間違いをはっきり正していきたい。 ◆ 車の免許を取った。今まで何だかなぁと軽くもやもやしていたことが、少し見えるようになってきた。とりあえず言いたいのは、道路上での歩行者優先の度合いを明示しないのはなぜかということ。デメリットも大きいが安全を重視すればやはり明らかにしている方がそちらに近いと思う。 僕は多くの人と違い、大人完全歩行者を20年ぐらいやってきた。そんな僕が自衛のためにやっていたのは、自分の前を車が横切るときは車を先に行かせるという行動だった。教習所で学んだが、これをされると困るのは本当は車の方だった。僕は交通整理された場所の横断歩道でさえ、大体の場合は通行する車を先に行かせていたのだ。僕がなぜこういう行動をとるに至ったかといえば、車が配慮のない速度で突っ込んでくるからだ。運転するようになってよくわかったが、配慮のない速度の出し方の車はとても多い。横断者の手前まで威圧的に近寄ってくる。早く行けよという心の声が聞こえてくる。 交通ルールを学んだ上で、なんでこういう思考や行動になるのか理解に苦しむが、それでも想像するに、こういう心境の人は運転に対するストレスが過剰に大きいのだ。免許を取って2ヶ月ほど経つが、やっぱり進んで運転したいなどとは思えない。教習所へ通う前、通った1.5ヶ月間、ずっと変わらず運転したくない気持ちが続いていた。よくわかんないがなんか少し上手くなってくればそのうち運転が楽しくなったりするのかも、と先のことを餌に自分をだましだましやっていたが、結局変わることはない。どうもポジティブにはならない。いや、確かに定刻を待つ必要のある公共交通機関と比べればとても便利だ。でもただ便利なだけでリスクの方が明らかに大きい。本当にみんな何で乗るんだろう。通勤で乗るのはとても良くわかるのだけど、用もなくだったり、近所のコンビニへ行くのだったり、定時がなく自分だけが移動するようなときだったり、そういうメリットがごく薄い場合でもそれしか選択肢が無いように車に乗っている人が多いのは本当になんか物悲しい気分になる。 あと、自動車とは関係ないのだが、運転をする中で記憶に関する興味深いことを一つ発見した。僕が欠けているだけであったり、僕の記憶の仕方に起因している可能性もある話だが、運転中に同乗者と会話をするとき、車が動いているとどうしても記憶を探れず思い出せない類のことがいくつかある。そんな状態な僕なので、運転後に何の話題だったかを覚えていないことも多いのだが、それを初めて実感したのは、東京にあるどんなお店が美味しかったか、について質問されたとき、全く記憶が探れなかったのを覚えている。食に興味満載な僕なので平生であればどんどん出てくるのだけど、どうしても一つも言うことができなかった。運転中で脳を使っているため、他のことにその部分を使えず頭の中が困っている状態になる。それで慌てたりはしないのだけど、どうしても思い出せないと同乗者に説明する僕はきっと変なやつだと思われていることだろう。僕自身もそんな運転者に当たったことがないから、本当に僕だけのことなのかもしれないけど、通常では出会うことのなかった感覚なのでとても面白い。 ◆ 運転の上手い下手。込み入った路地を対向車とすれ違いながらスイスイと進む。それは入らないだろうと思えるスペースで縦列駐車を一発で入れる。こういうことが上手な運転、とよく言われる。しかし、ウィンカーを出さない人のことを運転が下手だとは誰も言わない。他の車や人とコミュニケーションを取れる数少ないツールであるウィンカー。出さない人はあんなのいちいち出していないだけだと言うだろうが僕からすれば、出すことができない人である。その重要性を踏まえ、また常時全方位を確認することができない自分を踏まえれば、違う動作を行う前にウィンカーを出すことは必須である。そういう認識が持てないから、面倒だし誰もいないし見てないし出さなくても良いやと思って出すことができない。できないのだから下手なのだ。全方位を確認することができない自分自身さえも理解できないのだから下手である上に稚拙とまで言える。言い過ぎだろうか。そんなことないと思う。 ◆ しつこく誘うってすごい。双方向の意思疎通で決まったことに待ったをして何度も誘う。誘われる方の良さもあるが、誘う方の意志の持ち方がとても大切。断られても、その人なしには無理だという確信がないとできない。やりたいことがはっきりしているからこそ。その核心がお金儲けでしかないなら、騙し騙されることでしか成り立たないだろうな。 ◆ 外国での外食が日本円換算で倍以上の値段であることと、世界の中で相対的に経済状況が悪いことの相関が納得いかない。まるで、ラーメンの値段が上がることが指標みたいな感じだが、価値が上がるから値段が上がるのが資本主義じゃないっけか。上がらないのなら、大切では無いってだけじゃないの。 ◆ 自身のコンプレックスから誤認するについて。これは愛すべき個性であるが、多くの人にとっては容認しにくいことだ。 投稿者 morld.journal : 00:23 | コメント (0) | トラックバック (0) 基準と淘汰 日本人は事なかれ主義だ。アメリカ人は横柄だ。中国人は狡い。若い人は軟弱だ。年寄りは頭が硬い。こういう言い方は、ある個人の性質を指すことは絶対にないものだ。言ってる方も言われる方も、誤解をしている。そのような存在や発言に怒りを感じるのはとてもおかしい。それを自分のコンプレックスに気付くきっかけにはできる。 ◆ 主従関係という言葉の範囲を勘違いしている人は多い。主人と従者。奴隷時代は当たり前だった関係性だが、今の社会構造ではごく一部の人にしか当てはまらない。一番勘違いしている人が多いのは、従業員の従が主従の従だと思っている人。従業員とは主人につく従者ではなく、従事している人、従業している人のことを言う。そしてそういう都合の良い勘違いから、例えば会社の代表取締役が主人だと思い込むその浅はかさに辟易とする。この勘違いを多くの人が思い込んでいるせいで、営業と現場、企画と製作など、同じ立場の関係性においても主従があると思ってしまう。その結果がこのような内容に違和感を感じない感性だ。 「弊社の担当にやらせます。」お金を払うクライアントに対して、間を取り持つ人が発する言葉である。この関係において例えば「弊社の担当にやってもらいます。」と聞くと違和感があるのではないだろうか。もしそこに違和感を感じるなら、注意深くその意識を眺めてみると良い。弊社の担当にやってもらうことのどこに失礼があろうか。言う相手が社内の人間だったら違和感を感じないのなら、誰に対して発しても何ら問題はない言葉だ。 僕は、やらせる。という言葉が大嫌いだ。 (ごく一部と限ったのは、師弟関係においては主従があるからである) ◆ タイプライターが全盛だった頃から1990年代ぐらいまでの話。英文のセンテンスの後(ピリオドの次)にスペースを2つ入れる習慣があった。これはタイプしたキーが戻るとき、素早く押された次のキーと衝突しないよう間を持たせるための行為から2つ分のスペースが入っていたそうな。そんな背景は関係無く、僕は英語がそれほど得意ではないからピリオドの後がより開いている方が読みやすいので、自分で書くときはスペースを2つ入れるようにしている。 ◆ 話題をすり替えるなと言う人、大体はその人がすり替えようとしている。例えようもないのだが強いて例えるならば、個人の問題からはじまりそれが業界の問題であると話を繋げていくとき、個人の問題から業界の問題に話をすり替えていると指摘したりする。個別の問題は業界の問題ではないとか、この理解力の低さに呆れる場面もしばしばである。もし何か違和感があり指摘するとすれば、はじめの問題意識そのものか、話の繋がりについてであろう。すり替えなどという発言は全くといって良いほどに意味が無い。その発言が意図を大きく取り損ねていることに気付かない人にそれを解説するのはとても骨が折れる。なぜか、はまあ推して知るべし。わからない人はとにかく口癖のように使っている「話題のすり替えだ」という発言をやめて議論や会話を組み立てると、少しは建設的な話し合いができると思う。 ◆ 字の書き順は道具の性質に由来している。それが作法となるにはけっこう時間が必要で、長いこと筆で文字を書いてきた日本では学校で習うような書き順が作法として根付いている。その作法からすると、違う書き順は許容し難く、作法を違えている人を見ると育ちが悪いとまで感じてしまう。 その作法の中にいることの良さは大いにある。しかしその中にいないことを許容できる気持ちは持てるようになれないだろうか。洗練され続けた書くという行為の連なりから、限られた紙を慎重に丁寧に扱うための作法が生じた。しかし製造が大変で貴重なものであった紙に綺麗に字を残すことを一生懸命やっていた時代を思えば、今はずいぶんと変わった暮らしをしている。もちろん今なお名人が懸命に作る貴重な和紙はある。しかしそれは特殊なことと考えて珍重すれば良い。特殊な状況を除いたごく一般的な範囲において、故意に状況を悪くしようとしていない人に対して、礼儀に反することだ、とまで思われてしまうと、そこまでのことではないだろうと感じる。なんなら道具の性質に基づく作法が違う道具を使う中で出来ていないことの方が文化の形成に寄与していて、道具が違えど正しい使い方の範囲に頑なに留まろうとすることの方が合理的ではない可能性もあるかもしれない。茶道花道弓道柔道剣道書道というような作法を厳密な形式に取り入れている活動においては重視されても然るべしだが、僕らの全行動からみればごく一部のことで一般論にできることとは思えない。 文化のことはたまにもやもやーと考えるが、生じて転じて根付くまでの過程にある一連の出来事はここのところ少なそうな気がする。例えば、僕の好みから古びた良い美味しい居酒屋という文化。今なお僕らが行けるようなお店の形態はいつごろだろうか、詳しく知らないが江戸時代あたりから生じて転じて今に至っているだろうか。しっかりと根付いていたようであったが今は失われつつあるのをひしひしと感じる。今の世で根付いて続くために必要なことはお金、法人、後継者だ。しかし良い居酒屋を切り盛りする老夫婦を見たことがあるだろう。あのタイプのお店はお金もないし個人事業主だし、子がいても後継者はいないような状況が多そうに見える。あと10年いや20年経てば、僕が大好きなあの手のお店のほとんどは無くなってしまう。その理由の中心にあるものはお金だ。物の良さや人生の豊かさをなおざりにして、お金を理由に後が続かない。これを淘汰というだろうか。他にもそういうことは色々とあるだろうが、個人的に気になっているのは木造建築や工藝。これらも同じような道が待っている。この状況を淘汰と断じるのはどうだろうか。僕はおかしなことだと思う。 投稿者 morld.journal : 20:15 | コメント (0) | トラックバック (0) 育児と少子化 物忘れがひどいと感じている人の大体は、習慣化できない生活や行動をしているせいだ。30歳ぐらいを過ぎると気にしている人がままいるし、僕もよく何かを忘れたり忘れそうになるが、習慣化できていないのだから抜けるのはまあ普通のことである。油断しても差し支えない状況の人も同様。しかし、それでも忘れない人抜けの無い人というのがいる。それはその人が特別ですごいのだ。記憶と行動の組み立て方が違うんだろう。コツがあるような気もする。 ◆ 議員は子を連れて仕事しても良いという意見が多いようである。では、電車の運転手はどうだろう。保母さんはどうだろう。清掃員はどうだろう。パン工場の製造員は、タクシードライバーは。葬儀場職員はどうだろう。銀行の窓口係はどうだろう。警備員はどうだろう。 色んな例を混ぜてみたが、全部適してると思えない。どうして誰かの作った仕事の枠組みの中で仕事と育児を混ぜようと思うのだろう。答えは簡単なんだ。仕事など辞めれば良い。子が大切であるなら議員などやっている場合では無い。そこで自分の夢がとか、積み上げてきたキャリアがとか、そういうようなことを引き合いに出すのなら、子と過ごす時間で無理に自分の時間を満たす必要はない、やる事があるのだろう。それが自分であると思う人がいるのはとても自然だと思う。ただ、引き合いに出てくるのがもっと裕福な暮らしのためのお金であるなら、その愛とは何かをよく考えると良い。あと、権利を主張したいなら、まずは裁量を持つように頑張ろう。人のお金を権利があると我が物顔で使い切ろうとする人は、分かつことの大切さを思い出して欲しい。自分だけが得ることの愚かさは相当に酷いことだ。もう少し突っ込むと、これは経営側も意識することである。双方が意識してはじめて釣り合いが取れる。僕が見かける範囲でもまあ実感するが、酷い社長が少なくないからこその現状ではあるのだろうが。 ◆ 育休を使って少子化対策しましょう。育休に理解が無い?育休が取れない会社なんてあるの?少子化に対して意識が甘いし、真剣に取り組んでいない! って言い分を見かけた。育休の権利を主張し無理に行使している人も少子化を真剣に自分の問題だと捉えているようには見えない。女性に出産育児の負担がかかるのはよくわかるし大変だ。男性が共に行うべきことなのは間違いない。と言っても、女性の負担が無くなるわけがなく、負荷がかかることには覚悟をして、負荷が軽くなることを喜ぶスタンスは必要だろう。負荷がかかるのは夫が悪いなんて考えは、妻の支え方が悪く生活上の無用な負荷があって仕事ができないと主張する男性と同じだ。 少子化と育休の充実に相関関係はあるだろうか。ホームレスの増加と生活保護の充実に関係があると思うか。正確に対比できることではないが、どちらも多くのケースで関係は無いと感じる。育休が無いと子が減るのか、考えればわかるだろう。子を持つことと若い自分の欲求の実現を天秤にかけますか?子の素晴らしさを実感しようとしていないからこんな簡単なこともわからず、結婚出産育児、でそっからは自由、みたいな手順を目安に生きてしまう。 出産育児をすることで生活上大きな制約があるだろう。それを自分の自由の内にあると考えることはできないだろうか。辛いのが嫌、からの自由になりたい気持ち。自由を思いっきり履き違えていたとしたら、果たしてあなたは恥ずかしくないだろうか。ごく真っ当に生きているつもりが、自由を履き違えていただけのことでその全てが単なる子供じみたわがままに成り下がってしまう。 育休の話から離れてきたから話を戻す。育休をたくさんとることの是非。世帯収入が多い人は育休いらないでしょう。残したいほどのキャリアがある人も育休いらないでしょう。本当に必要なのは、働かないでも家計をある程度維持できることでぎりぎり生きていける人たちだ。待機児童問題も同じ。世帯収入が多い人が安く出産育児を行いたい理由は、貯蓄したいから。使い道は家族の安定した暮らし、子により良い学習の機会を与えるため。それを理由に育休の権利を主張するなんて、なんとも浅ましい。誰に回るかわからないけど、うちは多少余裕あるからという声の少なさに驚く。なんなら若いうちから老後のお金にまで意識が向いている。お金のことはとても大事だけど、自分の将来のために自分の努力ではなく他人を押しのけることをやってそのまま数十年も過ごせば。。。大きく歪んだ人物がそこにいそうな気がしないだろうか。それがあなたの欲しかった自由の行き先だろうか。もっと明るく幸せなはずではないだろうか。その明るい将来で我が子と孫と暮らす姿は思い浮かばないだろうか。いや、この話はいいや。 キャリアを残して、充実したやりがいも手応えも収入も地位もある仕事を出産後も続けたい。それが自分の人生だと思うなら、それはもう少子化に注力はしていない。ついでにやってやろうかぐらいのもんだろう。それを誇らしげに語るのはあまりよろしくないと思うけど、まあ個人の好き好きなので止めはしない。ただ、育休を良しとできない社会を叩けるほどのことはしていないとは自覚してほしい。育休も保育園も生活保護も、もっとまともに機能するようになると良い。余裕のある人は遠慮しなさい。そんなにいらんだろうに。 ◆ 頼んでくれるんだからやろうかなって思う気持ち。ピース。 投稿者 morld.journal : 23:57 | コメント (0) | トラックバック (0) デジタルネイティブと反復 これからはますますデジタルな世の中だから、デジタルネイティブが重要なんて話を未だによく耳にする。リテラシーの育成みたいなことを考えながら苦慮しているけど、人生の一番の基本は倫理だ。道徳が促すような正しさは必須ではないが、僕らが生きていく中では、ある程度時代に沿った形の、でもそういう社会的影響を受けても変わらない根源的な部分ももっている共通観念を必要とする。それが倫理だ。 今ではスマートフォン、タブレットといった電子端末を子に与えている人が多い。無尽蔵にやってくる膨大な情報群、手が出せさえすればそれらを簡単に手にすることができる。そこにも問題は多く含まれているが、今回はもう少し単純なことに目を向ける。 電子データに触れるときの体感について考える。得られる情報は様々ではあるものの、触覚としては均一なものしかくれない。このような手ごたえの無さに加えて、見過ごしたり間違えたとき好きなように戻せることは、便利ではあるが問題も含んでいる。戻れないことが当たり前でなかったり便利であることすら意識できないかもしれない。そしてそれと同様ではないことが辛くなることも問題だ。 少し拗れれば繰り返すことの意味がわからなくもなる。僕らにとって、反復ほど実感をくれるものはそう多くない。学校で教わることは人生にとって無意味だ、というような考えを持っている人もいるが、それは大切なことを見逃している。教わる内容の如何に関わらず、様々なことについて反復して何かできるようになったり、何かについて深く認識することが一番大きな成果で、それができる場所が学校である。そこを見誤ると反復して得られるものに対して意味を求めたりする。 また、反復がくれるものは具体的な知識や答えではなく、世界にはどういうことがあるのかという多くの実例から学ぶ、人生で訪れる出来事たちに応じるための知恵である。そういう知恵はすぐに明快な解決や答えをくれることはないが、生きれば生きるほど溜まっていき、ある地点から現状に応じる以上の能力として予測するという能力をくれるようになる。反復が無いまま知恵が根付くことはないことを思えば、繰り返し同じことをする意味を問う子に対し、叱ってやることの意味は大きいし、堪え性を養う意識はとても大切だろう。 堪え性が無い状態。少し極端に想像してみると良い。毎日の生活から積み重ねられて対処を求めてくるあれこれに応じなければならない現実に対し、面倒だと判断する気持ち。毎朝目覚め、代わり映えのない食事をし、同じ経路で同じ場所へ行き、同じことをして家へ帰り休み眠る。もう少し具体的に例えれば、社会に出て、製造工場での流れ作業、レジ打ち、梱包、草抜き、大工仕事のような細かな工程の膨大な積み重ねを前に途方に暮れ、気が負けてしまうようなこともあるだろう。そんなことに負けてしまう人生は幸せに向かうことがあるのだろうか。その辛い将来はスマートフォンから始まっているのかもしれないと思えば、我が子が望むことであったとしても、それを諌めるのが親の役割である。子の願望がより具体性を帯びるなら、頃合いをみて渡してあげるのが子育てではないだろうか。 iPadを渡しておけばYoutubeをみて静かになると、その有用性を認めているのはわかる。だが、怒鳴って叱りつけるほど静かにしなくてはいけない場所へわざわざ出かける理由とはなんだろうか。離婚の多いこの頃だ、シングルマザーの方かもしれないし、追い詰まった状況もないとは思わない。しかし前にも少し触れたことだが、ベビーカーを押す母親が未だに目につく。歩けるだろう手足を持った子をそこへ押し込めて母親本人はiPhoneで何かをずっと見ている。そういう光景を目にする機会が本当に多い。母親がここまで我が子を見なくなったのは大きな問題だろう。押し込めざるを得ない状況が想像できるのに、なぜ出掛けるのだろうか。1年中出掛けないのは息が詰まるだろう、息抜きは必要だ。どうしても行かなくてはならない用事だってある。だが、そういうのは特殊な状況で、ある程度の我慢が必要な期間などたかだか3〜4年ほどのことである。しかも、親と子にとって最も密接で輝かしい3年間なはずである。社会に対して、子と過ごす時の不便を訴えるということは、その状況を特殊なものではなく難のない日常にしたいと言っているように聞こえる。難のない日常にできれば、望むままの行き先で子は大人しく(もしくは安全に大暴れ)して、親はiPhoneを見るのだろう。それは子のためなんだろうか。親の都合で子をコントロールしたり、子を盾にとって快楽を手軽に得ようとしているだけ、ということである可能性が僕の頭からはなかなか離れない。 投稿者 morld.journal : 13:36 | コメント (0) | トラックバック (0) 第30回いしかわ広告景観賞 コッコレかないわのサイン計画が、第30回いしかわ広告景観賞の石川県中小企業団体中央会賞に選ばれました。評価頂けて嬉しく思います。関係各位、おめでとうございます。 詳しい写真などはこちらで見られます。 Behance 投稿者 morld.journal : 01:51 | コメント (0) | トラックバック (0) 久々の雑感 閉店間際のスーパー。 魚売り場や肉売り場に立ち、大量の、それはもう明らかに食べきれないであろうと思えるほど大量の肉が並んでいるのを目の前に、普段自宅で「あれとこれ使い切らないとまずいなぁ」と思うときの感覚を持ち出すと、こんな大量のものどうしよう。。。とにかく食べなくては、と焦燥を感じる。 それを見て何も思わないのは、自分自身の生活とは直接関係が無いと思えていて、状況にも慣れてしまっているからだ。金勘定に軸を置いた効率良く分配するための行為が、果たしてこれは効率的と言えるのだろうかと思える事態を生んでいる。分配を効率的にできなくても、効率的に消費できればそちらの方が優れていると感じる。どちらも成立させれば良いのに、今は一方的すぎるんじゃないか。分配の効率を下げるとどうなるか、好きな時に好きなだけ好きなものを買えなくなる。たったそれだけのことである。 ▪️ 便利になって、めいめいが作りたいものを作っている。 かつて、これが仕事だと言われながら一生懸命作る千本格子の戸はもうずいぶんと減ってしまった。良くなったのだろうか。なにか投げやりな感じにも思える。 ▪️ 今まで色んな人に会ってきたが、女性特有の観点について思うことがある。 女らしさ、女々しさというような言葉たち、それと、夜に笛を吹くと大蛇が出る、夜に爪を切ると親の死に目に会えない、新品の身につける物は午前中におろさないといけない、という諸説あるがある程度は昔からきている迷信の類い、こういうことに抗いたい気持ちになっているのは経験上、女性が多いと感じる。 女なのだからと虐げられたと感じた経験があれば、女らしくある必要性への怒りはまあ理解できる。しかし虐げたのは本当に第三者だったのだろうか。道すがら、女性を見かけて女らしくしなさいと言う人はごく稀だ。つまりはよく知っている人で、しかも第三者から見て気をつけてほしいと感じたからこその言葉なのだろう。そう思えば、自ら虐げていたと言えなくもない。まあこれはちょっと大人気ない論調だ。言う側の意識や悪意の問題もある。これはひとまず置いておく。 次、迷信について。こちらも前述のことと同じような動機で使われるものもあるが、爪切りと死に目の相関関係というように、その間の繋がりについて到底思いつかないようなものがある。諸説あると書いたが、今ある諸説など全部ウソだと思う。迷信にわかりやすい因果関係など必要ない。僕が思うにそれは、とても大切な繋がりがある人間関係において生じる信頼性にのみ拠っている有難い言葉なのだ。大切な人から教わった言葉を大切な人に伝えている。それを根拠のない迷信だと貶めてしまったのは誰でもないその人自身だ。自分の身近なおばあさんが教えてくれた言葉と、どこの誰かわからない人が考えたさもそれっぽい言葉とを比べて、大切な人が嘘をついていると判断してしまったのだ。自分の中で「うそだろー」と留めるのならまだわかるが、そんなことは私には関係無いと跳ね返してしまうことの暴力を感じてもらいたい。嘘だと言う必要もなければ、意味が無いから従わないなんてのも無用、ただそういうものかと受け止めて良いことだと思う。そして、自分の大切な人にも同じように伝えてあげてほしい。 ちょっと逸れるが、フェミニズムって考え方自体が男性的に感じる。女性はもっと軽やかで現実味のある実感を大切にできる。その立場を差別されていると感じるのは性別の枠に捉われすぎている。語弊があるが、男など、もっとバカにしても良い。 ▪️ 辛いと感じる状況を放っておくとロクなことにならない。 例えば、通勤で辛いと思い続けていると自分の行動や思考がそれ基準になっていく。辛い状況に接さなければ良いだけの場合であってもそういうことに思いが至らないことは少なくない。 数はテキトーだが、傍目からみれば通勤が辛いのなんて1.3億人のうち0.1億人ぐらいの話でしかなく、なんなら70億人のうちの1億人ぐらいの話でしか無い。少数な世界のことを考えるのがムダだとかダメだってことではなくて、少数でいえばもっと私的なことにはとても大きな価値がある。逆に大多数のことにも価値はある。微妙な規模のためのことがあたかも正当である真理である、そういう捉え方が危ういと思っている。インターネットでさえ70億人のうちの30億人ぐらいの出来事だろうし、SNSやウェブサイトで言えば5億人10億人ぐらいの出来事なんじゃ無いの。比率をそのまま日本に当てはめると0.1億人に満たない。自分の考えがその中のことなのか、その世界を広げることなのかはとても重要な切り口であるように思う。 投稿者 morld.journal : 15:58 | コメント (0) | トラックバック (0) 子 書きたいネタはだいぶ溜まっているのだが、良い感じにまとめるのがなかなか難しい。話題が繋がっていたり、先にこっちをみたいなこともある。順序立てて理路整然と書こうとは全く思っていないから余計に難しい。 まあ何を書くにしても、今後話題にすることは自虐的な内容が多くなる。だけども息子のプロとしては、自分が痛いからと痛い内容を避けることはしたくない。インターネットの世間に流れる言ってはいけないムードを少しでも打破したい気持ちもある。自分に棘がいっぱい刺さっても突き進もうと思う。 少し話は逸れるが、僕よりぐっと若い世代にある強い傾向を感じる。それは対面したときの会話の中で、当たり障りのない言葉があまりに多いと感じること。とても優秀な若者がいわゆる論理的思考というのだろう、軽い言葉を重ねに重ねて正しいようなことを言っている。半分ぐらいはそれが正しいことだと思えないし、そういう正しいことを言い合う会話をしたいとも思わない。思ってること、本当のことを言えば良いのに。僕はそちらに関心がある。 若い人たちは社会を陰鬱なものと思いすぎているのだろうか。リテラシーの育成が悪い作用をしている気もするし、親からの影響も大きいのだろう。防御のための理論武装は自分の意思を損なわせることに繋がる。長く短い人生では理論じゃなく自分の意思で武装した方が面白いし役に立つと思う。 そして、こういう状況を利用しようとでもしているのか、今のインターネットには嘘や悪意が満載だ。Googleが教えてくれることは本当のこと良質なこともとても多いのだが、ある領域では悪意が渦巻いている。人の役に立とうとしているGoogleがそういうことを放置している現状にももちろん問題は大きい。しかしそれ以上に、親になった人たちがそのことに気付いていないか、気付いても言わないか、どちらかはわからないが問題に対策したり解決しようという流れが世間的に出てきていないところに危うさがある。 横山は果たしてインターネットの何を見て悪いと言っているのか。。。と思った方のためにも簡単な例を挙げておく。ウィルスやマルウェアのようなものはみんな危険だと認識しているだろう。それ以外で身近で目に見える良くない例としては、eメールが開発され使われるようになって以来、迷惑メールをどうにかしようとする動きが少なすぎることだ。専門家は注力して取り組んでいるだろうが、その他の一般の人たちの意識はそれほどこちらを向いていない。この問題に真剣に取り組まない判断基準としては、関わらなければリアルに影響はないから、ということだろうか。もしそうであればこの判断基準は実は結構危うい。警戒すべきはウィルスと分かりやすい詐欺、あとはカードの不正利用ぐらいに思っている。でもそのうち深刻な問題になってくると思うが、Googleで検索をして表示される結果上位5-10ページ分ぐらいを占める嘘で固められた情報群を目にする機会も少なくない。(この内容についてはまた別の機会で詳しく書くつもり)またGoogle以前に、ここは本当に日本だろうかと感じるような、情報統制とも言えなくはないようなことを平気でやっているプロバイダさえある。色々なことを体験してみて、こういうことは自分の中だけのことにするときっと実害が増える一方だろうと感じたので、同じように感じている人、危機感を感じてくれる人が周りに増え真剣な取り組みが増えるきっかけになるのなら、僕ぐらいは言いにくいことをはっきり言っちゃう痛い子でいようと思って書いている。 さて、関係のない前置きが長くなりもはや本題になりそうだったが、ここでようやく本題に入る。いきなりお前が言うなという話題だ。結論を簡単に言うと、子を産むなら20歳そこそこが良いということだ。当たり前といえば当たり前なのだが、それでも世間の波はそっちを推そうとしていない。例えば40歳の僕が子を持つとする、子が30歳のころ僕は70歳だ。青年30歳の心境や状況はというと、30歳を経た皆さまならわかると思うが、既婚未婚や子の有無にかかわらず多くの人は安定しているとは思いがたい。当人のおかれる立場に立つと、運が悪ければ70歳の親の介護など大きな負担を抱えることもあり得ると少なからず考えるだろう。それは必ずしもマイナスではないが、子にとっての、良い人生の一助になるものでもない。 子の夢や願望に対して、叶えてあげたい、なんでもしたい、と口に出す人がいる。そう言うことで子の良い将来がやってくるかといえば、それはそうでもない。親の面倒、親族とのあれこれ、お墓のこと、などなどを考えると、「○○になりたい!」っていう子の浅慮な気持ちに大きな疑問を投げてあげることがないのは問題で、後々おかしなことが起こってくることもある。 なんでも叶えてあげたい気持ちはとても前向きな愛情だ。でも、そっと裏返すと実は問題のタネを植え付けていたり、そもそも子にネガティブなことを言いたくない自分の気持ちの表れでもあるかもしれない。親の尊厳、自分の見栄、何故か不遇な時代と信じ憐れむ気持ち、自分の不幸な体験の逆を与えようとムキになること、こういうことがもし隠れているのであれば、そのオモテ側の愛とは一体何であろうか。これはとても個人的で微妙な話題だ。線引きなどできない、自分で考えるしかないものだ。 ここで、僕の祖母のことを少し書いてみる。彼女は僕のことを盲信的に愛してくれていた。35歳にもなる僕に、ひろちゃんが一番かわいいんじゃ、と言い続けていた。亡くなるまで、例え認知症が進んでも僕にだけはほぼ変わらずに愛情をくれた。そのことは本当に僕の財産であるが、一方で、おばあちゃん、本当に嬉しいのだけどごめんねという気持ちも大きかった。僕が祖母から離れて暮らしはじめ15年、前半は遠くとも頑張りんさいよと応援の声をくれていた。その後も態度が変わるわけではないが、後半には再び一緒に暮らすために岡山へ帰ってくりゃーえーが、と言ってくれていた。しかし、岡山へ帰って僕ができる仕事は限られると思っていた。当時好きだった人もいた。 祖母が亡くなってから時折、彼女の人生や暮らしを静かに思い浮かべている。祖母は割りと若いころに夫を亡くした。それ以来、子を育てるためにも自身で仕事を懸命にがんばっていた。若い頃から花が好きで年をとっても生け花を人生の一部にしていた祖母は、僕によく花のことを教えてくれていた。僕が物心ついた頃から膝が悪く正座ができない、走ることもできず歩くのもとてもゆっくりで、ほとんど常に痛みを感じていたかもしれない。そんな祖母はゆっくり動くことはできるものの、活発に動き回ることがままならないので、生活するための行動以外では1日に数回お花と接する時間があるだけで大体ずっとベッドにいてテレビを観ていた。テレビに映る美しい景色を、きっと実際に見たいなと思っていただろう。美味しそうなもの、バレーボール、旅行、恋愛、家族、感動などなどあらゆる体験や感情に繋がるそれらを、ままならない体で観ていたのだ。その気持ちを厳密に想像することはできない。でも、あらゆることへの願望が形を変えて僕に届いていたと思った。それに早くから気付いていれば何か違っていたかもしれない。僕の踏ん切りがつかぬまま祖母は亡くなってしまった。 これは別に悲しい物語でも、僕の深い後悔の念でも無い。よくある普通のことだろう。普通のことではあるが、自分の人生をできるだけしっかり受け止めることをしない人は多いのだ。夢がある理想がある自由があると掲げたものの眩しさに引き寄せられているだけだ。 しっかり受け止めようとするのであれば、状況を冷静に少し長いスパンで考え、不足しているなら子の大学進学や都会での一人暮らしなんか認めてはいけない。この不足かどうかの判断とは、自分の年収や貯蓄が多い少ない、資産が有る無いに限るようなことではない。例えば僕の場合。これから、仮に僕が二人の子を授かるとする。横山家にいる僕というだけでなく、横山家にいる僕の父の子であり2児の父でもある僕ということから、この二人の子に人生をしっかり進んでもらうため僕にできることを考えて、責任を持って行動、決断することが必要だろう。そう思うと、我が子らにやりたい仕事やチャレンジが強くあるのであればそれを後押しできれば良いが、そういう強い意志がないのなら、進学するならうちから通うようにと子の外側から決定をするだろう。それは僕の意地悪でも利己的な強要でもない、覚悟を持って子らの人生の条件になるということだ。 子に対し、自分がこの子の人生の条件だと自覚している人はどのぐらいいるのだろうか。持ったことのない僕が言っちゃうが、子を持つということの責任とは健康に育てること、しっかり教育すること、立派で自由な人生を歩ませることなんかではない。それは責任でも覚悟でもなく願望だ。この子の人生の条件に自らを据えること、それとその条件を克服し得るだけの心身になるよう支えてあげること、こういうことを成し遂げることが責任を持つということだ。親戚付き合いは面倒極まりなく、お墓など時代遅れだ、と軽く言っている人は、自分がいかに覚悟から遠くにいて、当人たちの性質にもよるが責任を果たせない可能性があるかということをよく考えてみてほしい。 親戚や友人との人間関係、土地に対する愛着や理解、こういう資産は子の人生にとって大きなものになる可能性が高いものだ。でも進路を決めるとき我が子から、東京が良い!東京へ行くんだ!って言われ喧嘩になることも想像できる。家族構成や親族一同の状況次第だが、明確な目的、何とか大学の何とか教授のもとで勉強したいとか弟子入りしたいとか、そういった意思でもない限りは、親子の折り合いが最悪になっても、なんだかんだ言われても絶対に曲げないことも必要と思う。地元にいて大学を経て、本人の気持ちが固まるなら可能な範囲でどこへでも行けば良い。親としては自由にさせたい、都会での経験は重要だと迷うかもしれないが、たかが4年のことだ。意思が明確でない子に対しての、たった4年間の制約から大きく損なわれる人生なんてないのだ。向こう見ずに都会へ出ることのリスクを見据えられるのは間違いなく親だけである。意思を持っていない子の願望を尊重するかどうかはよくよく考えなくてはいけない。 前に書いた「自由について」に通じるが、子を守りたい親の気持ちは目に見えるものだけに留まっていてはいけない。ある自律の後に開けることが本当の自由であると思う。 投稿者 morld.journal : 23:35 | コメント (0) | トラックバック (0) 体の使い方 20代の中頃には色んなことを考えていたが、その中で大きな関心の一つが自分の体のことだった。これは健康のことではない。身近な友人は僕が健康を害していたことを知っているが、それはある程度のトライ&エラーによって心情的には落ち着いていたし、運良く回復した。自分の体のこととは、自分の体をどう動かせているのか、ということでそこに大きな関心があった。 自分が指を、ここでは小指を動かすことを考えてみる。まず普通にやってみる。ありがたいことに五体満足なので普通に動く。それはそれで良いのだけど、ここで念力で物を動かすみたいな感じで自分の指をじっと見つめ、動けと頭で思ってみる。動かない。この2点の間をずっと探っていた。できるだけ集中するために寝転び目を瞑り、そして動けと頭で思ってみる。やっぱり動かない。で、何の気なしに動かす。ひょいと動く。これは一体。。。と未だによくわからないけど、こういうことをしていて、日常の体の使い方に意識が向くようになった。(状況を冷静な態度で思い出せば、我ながらバカみたいだが) 色々な経緯の後、大きな気づきの一つは歩くことだった。わかりやすい例を出す。これは男性の方ができていない人が多い。靴の事情が大きいのかもしれない。肩で風を切りながらあるくアッチ系の人を思い出してみてほしい。股も開いてドシドシと歩いている。あそこまで意識すればそれはそれで良いのだけど、あの足の動き。つま先が前を向いていない、大げさに言えば横を向ききっている。この想像を頭に残し自分の経験を思い起こすと、20代の前半から後半に差し掛かるに従い、足の動きが緩慢というか意思が弱いというか無いというか、進む意思はあって骨は動かしているけど肉は勝手についてきているような状態の自分を思い出せた。それでこれがどうかと言えばつまりは、自然につま先が横を向き始めていたのである。 これに気付いた時、歩くとき僕は一体何を考えていたのかと思った。何も考えていなく、ただ自然とやっていただけなのだが、そこに大きな問題を感じた。さっきの小指が動く・動かない話と同じように、家を出て駅まで行こう!と自然とやっていただけなのだが、駅まで行くという頭を使った行為であればもっと意思を反映させられるはずだ。意思がなく惰性から行為を行うから、つま先がどんどん自然と前を向かなくなったんだと思った。 そこで、歩き方を自分なりに見直してみた。僕は高校生の頃とても好んで弓道をやっていたので、足腰のバランス感覚がわりときちんと身についている。(鍛え上げて、しっかりしているという意味では無い。自分の形がどうなっているかの体験が積み重なって感覚を維持できている感じ。丹田。)そのおかげもあって、前に向かって歩くとき、つま先を前に向けしっかりと地を蹴り前へ進むことが割とスムーズに行えた。5年ぐらいはかかっただろうか、あまり意識しないでもつま先が前を向き歩くことがごく自然に身についた。この経験から思うのは、地を蹴り前へ進むように歩くととても楽で効果的、それにお腹に軽く力が入っているから全体的な姿勢としても楽ということ。 こういうことにすごいなーと思う一方で自らを省みると、母から「ピシッとしなさい」「シャンシャン歩いて」と言われていたのを思い出した。言われた当時小学生の僕はと言えば、何度も言うから気にされているとはわかるものの、正直何のために言っているのかは分かっていなかった。もう少し言えば、母が言うようにするには力が必要で維持するのが結構辛かったのを覚えている。しかし、ここに届いていない意思の疎通があったわけだ。両者の関係は至って良好(僕はそう思っている)だが、体の動きなんてごく当たり前のことだし言語化してコミュニケーションを取るのが難しいことは、当然ながら深く話題に出ることもなく時間が流れていった。 もし母と僕が、体の動きについて突っ込んだ話が出ていたなら、きっと僕は走るのが一段と早い男の子としてモテモテで今ごろは結婚して大家族だったんじゃないかと思う。謎 戯言はさておき、足の動きと自分の移動については、伝えにくいし聞き取りにくいけど、子と深く話をするべきことの一つだと思う。息子のプロが言うのだから、気楽に試してみてほしい。あとは、同じことを繰り返し言葉にしても子には伝わらないことはよく思い出すと良い。静かにしなさいを伝えたければ、こうこうだから静かにしなさい、なんて言い方をせず、他の道を考えましょう大変だろうけど。理由をつけても言ってること同じで、それは説得でしかないからね。 あと、こういう話は道具を使った行為についてはよく言及されている。鉛筆、箸、鉄棒、自転車、バットやラケット、スポーツ全般、ハサミ、針、包丁、鉈、竹うまなどなど。こっちももちろん大事だけど、これが上手くなるためのことでもあるから足も含め指、手、腕、腰など、出来るなら少しずつ順番にでも色々意識すると良いと思う。特に腰はやはり重要と思う。でも腰が一番難しいかもしれない。とにかく時間をかけて反復する必要がある。 投稿者 morld.journal : 14:48 | コメント (0) | トラックバック (0) 自分の声 自分の声の大きさと、自分の感覚や知識の差が大きい人は、声の加減を身に付けることに注力した方が良い。声の大きさに任せていては、せっかくのものが成長することなく失われていくから。 投稿者 morld.journal : 14:43 | コメント (0) | トラックバック (0) 息子のプロ 早いものでもう40歳になった。不惑という心境に至っているとは思いがたい僕ではあるが、数年ほど時間をかけ、ようやく考えることや考えることをまとめることができる心情に戻ってきた。少しずつになるだろうがふつふつと湧き上がる考えを書いたり、20代のころ考えていたことにツッコミを入れて話を膨らませたりしてみようと思う。(まあ、まだ状況が安定しているわけではないので、かなり不定期になるかもですが、なにとぞ生温かく。。。) 僕は40歳にもなったのに子を持つどころか結婚にもまだ至っていない。結婚したい気持ちは10年以上変わらず持っているが、なかなか難しいものだ。周りの友人たちがどんどんと父や母になっていっているのをみて、焦るような気持ちは出てこないものの、相変わらず僕は外れているなと改めて自分のいる位置を確認しているようなこの頃です。 さて、人が生まれて育ち大きくなって恋をして愛を育み親になる、こういう人生の、人間の成長の流れがある。20代に親になれば、40代にはもう親歴20年、子も20歳という状態である。一方、僕はといえば40歳までずっと息子だ。これはもう息子のプロと言っても差し支えないと自己を正当化したい。自分がある面で結果を残せていないことを擁護したいわけではないのだが、息子のプロでやってきたからこそ、とても冷静に自分を見ていることは想像してもらえるのではないだろうか。そんな息子のプロな僕には子の将来にとって必要じゃ無いかと思うことがいくつかある。真っ当に親になった皆さま、アマチュアな子の皆さまにとって、有意義な内容になっているかどうかはわかりませんが、まあそういう観点もあるかと思って読んでもらえたら幸いです。 ※写真はたんぽぽ。最近、妙に写真にはまっている。 投稿者 morld.journal : 14:23 | コメント (0) | トラックバック (0) THE ONE SHOW 2017 SHORTLIST "COCCOLLE KANAIWA" 昨年デザインさせて頂いたコッコレかないわのデザインがThe One Show 2017のショートリストに選ばれました。 残念ながらファイナリストには残れませんでしたが、評価してもらえたことを嬉しく思います。 詳しい写真などはこちらで見られます。 Behance ■ Client: Yuchi Tsuruyama KAGA Corporation / Kanazawa Shuji Tsuruyama KAGA Corporation / Kanazawa CREDIT: Yuji Nakae Architect/Creative Director Nakae Architects Inc. / Tokyo Iku Hirose Producer/Concept Design/Naming Tone and Matter Inc. / Tokyo Yoko Yamamoto Director/Manager Tone and Matter Inc. / Tokyo Hiroaki Yokoyama Art Director/Creative Director/Designer morld / Tokyo Yoko Nishi Designer(Uniform/Clothes) From fabric yarn / Tokyo Yutaka Matsu-ra Miso-soup and All Foods Tsumugiya / Tokyo Kenichi Kaneko Miso-soup and All Foods Tsumugiya / Tokyo Eriko Hayashi Landscape Lysing / Tokyo SOLSO Farm Green Tokyo Naoyuki Kamiya Designer(Signage) Horaisha Ishikawa Co.,Ltd. / Kanazawa Hiroshi Okuda Dyer(Noren/Tenugui) Okuda Sensyoku Co.,Ltd. / Kanazawa Chaos Tanaka Illustrator(Kanaiwa Map/Soramiso) Tokyo 投稿者 morld.journal : 23:49 | コメント (0) | トラックバック (0) カテゴリー / CATEGORIES すべての記事 / ALL ARTICLES * ABOUT morld * AWARDS * INFORMATION * PICT FREE * SHORT WORDS * WORKS * Drawing * Graphic * Logotype CI VI * Print * Signage * Typography * Website * 息子のプロ * 気がついたこと / THINKING * 気になること / INTERESTING * 考えている企画 / Thinking Projects * 行ったところ / WHERE I WENT 最近のエントリー / RECENT ENTRY * 可能性とモチーフ * 貧すれば鈍する * 魚の骨、食べる物、お米 * 運転、英雄、語句 * 基準と淘汰 * 育児と少子化 * デジタルネイティブと反復 * 第30回いしかわ広告景観賞 * 久々の雑感 * 子 * 体の使い方 * 自分の声 * 息子のプロ * The One Show 2017 shortlist "Coccolle Kanaiwa" * 第19回 CSデザイン賞 準グランプリ 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Makoto Yamaguchi Design オカズデザイン okaz design 岡安泉照明設計事務所 Izumi Okayasu Lighting Design 奥田染色株式会社 オレンジページ 加賀建設株式会社 かまわぬ 高円寺 HIGH コッコレかないわ コモレビデザイン コスモテック 酒 高蔵 白川在建築設計事務所 株式会社セゾンアート つむぎや 天空カフェ・アウラ 特種東海製紙株式会社 合同会社冨川浩史建築設計事務所 ナカマサニッキ 株式会社 中村活字 株式会社ナカエ・アーキテクツ 一級建築士事務所 バランスト・グロースLLP フルタヨウコ 株式会社宝来社石川 細谷正人日記 三宅建築事務所 武蔵野市 武蔵野プレイス 名貴堂 やきがしや SUSUCRE ユフ精器株式会社 中国料理 梨花 株式会社リモード 株式会社リバネス 梅酒研究会 梅酒ダイニング明星 最近のコメント / RECENT COMMENT * 第43回SDA賞 / 43rd SDA Award (Japan Sign Design Association) └ tomo 07/07 └ よこやまひろあき 07/10 * 食育 / The Dietary Education └ RIKA 05/22 └ よこやまひろあき 05/24 * 人間の尊厳 / Dignity of Humanity └ RIKA 04/27 └ よこやまひろあき 05/01 * こんな梅は無い / The Ume Like This Doesn't Exist └ senho 03/11 └ よこやまひろあき 03/22 * 甘えてはいけない、のか / Don't Rely...? └ RIKA 12/17 └ よこやまひろあき 12/31 FOR RECEIVING MORLD'S MAIL This signup form no longer exists. AWARDS [ THANKS FOR ALL ] Tokyo TDC Awards 2008 PROJECT#1‘NATURE OF HUMANITY' 人間は何色が好きなんだろう 人間が好きな色を明らかにしていきます 気になる方はどうぞご参加ください Human might like what color. Human’s favorite color is clarified. Please participate in interesting one. このプロジェクトについて / ABOUT THIS PROJECT RSS Syndicate this site (XML) 2020年1月 日 月 火 水 木 金 土 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 アーカイブ / ARCHIVE * [2018年7月] [2018年6月] [2018年3月] [2018年2月] [2017年11月] [2017年10月] [2017年9月] [2017年8月] [2017年6月] [2017年4月] [2016年10月] [2015年8月] [2015年1月] [2013年1月] [2012年8月] [2012年6月] [2012年5月] [2012年4月] [2012年3月] [2011年12月] [2011年11月] [2011年10月] [2011年9月] [2011年8月] [2011年7月] [2011年6月] [2011年5月] [2011年4月] [2011年3月] [2011年2月] [2011年1月] [2010年12月] [2010年11月] [2010年10月] [2010年9月] [2010年8月] [2010年7月] [2010年6月] [2010年5月] [2010年4月] [2010年3月] [2010年2月] [2010年1月] [2009年12月] [2009年11月] [2009年10月] [2009年9月] [2009年8月] [2009年7月] [2009年6月] [2009年5月] [2009年4月] [2009年3月] [2009年2月] [2009年1月] [2008年12月] [2008年11月] [2008年10月] [2008年9月] [2008年8月] [2008年7月] [2008年6月] [2008年5月] [2008年4月] [2008年3月] [2008年2月] [2008年1月] [2007年12月] [2007年11月] [2007年10月] [2007年9月] [2007年7月] [2007年5月] [2007年4月] [2007年2月] [2007年1月] [2006年12月] [2006年11月] [2006年10月] [2006年9月] [2006年8月] [2006年7月] [2006年6月] [2006年5月] [2006年4月] [2006年3月] [2006年2月] [2006年1月] [2005年12月] [2005年11月] [2005年10月] [2005年9月] [2005年8月] [2005年7月] [2005年6月] [2005年4月] [2005年3月] [2004年12月] [2004年11月] [2004年10月] [2004年9月] [2004年8月] [2004年7月] [2004年6月] [2004年3月] [2004年2月] [2004年1月] [2003年12月] [2003年9月] PROFILE 横山博昭:1977年 日本の岡山市生まれ。大学で建築を学び、2004年にフリーランスのDESIGNERになる。morldとして2005年より活動。CI・WEBサイト・サイン計画・イラスト・ドローイング・印刷物などを手がける。人は、生きる中での様々な行動の動機の根源において、他者とのコミュニケーションを欲していると考えている。 「僕がものをつくるとき、もし意味の無い仕組みでできあがっている世界であれば、僕はそれをひっくり返して考えます。worldをひっくりかえしてmorld(マールド)という名前でものをつくっています。」 Hiroaki Yokoyama : Born in 1977, in Okayama, Japan. After studying architecture, became a free-lance DESIGNER in 2004. Established "morld" in 2005. "morld" produces CI/Websites, illustrations, drawings, printed materials etc. based in Tokyo. I think people's desire to communicate directs various activities in their lives. "I often see societies built upon empty values. Designing in such contexts, I try to reconsider the values. 'm'orld comes from this concept: rolling over the 'w'orld." 受賞歴:日本サインデザイン賞 最優秀賞、ONE SHOW shortlist、CSデザイン賞 準グランプリ、Webby Award official honoree、TDC賞 入選など PDF OF PROFILE at 2010 JAN. 07 Contact this e-mail address. info (at) morld.jp 検索 / SEARCH このサイトの検索 他愛も無い話からまじめな話まで。色々なお知らせもここでやります。 / From the story to a serious story without another love either. It informs still variously here. Please contribute the impression, the opinion, and the demand, etc. freely. Powered by Movable Type 4.261 COPYRIGHTS (C) 2005 morld ALL RIGHTS RESERVED.